まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です
by fachwerkstrasse
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ベルリン中央駅© 2010-2011 M.UNO
2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学
会議通訳修士課程 在籍中
日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員
[翻訳]
ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)
当ブログに掲載の文章・写真の無断転載を禁じます。写真下に
[©DFS] と記されている場合、著作権は全てブログ著者に帰します。それ以外の写真や引用は、その都度出典や著作権元を明示しております。
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新年のカンタータ ④ BWV 16
初演は1726年の元旦。1725年の待望節から年明けの一月中旬までの間にゲオルク・クリスティアン・レームスの詩句を元に作曲された一連のカンタータ群のうちの一曲である。
レームスはかつてのシュレジエン、今日ではポーランド領となっているレーグニッツの出身。ダルムシュタットの宮廷司書を務めた後、33歳の若さで同地で生涯を閉じた人で、1711年に件の詩句を出版している。
レームス自ら「神に捧げたもう、年間を通じて日曜や祝日に祈りを捧げるための詩句、神をたたえダルムシュタットの城内教会において早朝と正午に敬虔心を奮い立たせる」ためのものと記している。
[Georg Christian Lehms, aus "Teutschlands Galante Poetinnen
Mit Ihren sinnreichen und netten Proben", Franckfurt am Mayn, Anno 1715]
まずもってこの通年用の詩句は、当地のカペルマイスター(宮廷楽長)クリストフ・グラウプナーのために書かれたもので、1711年の聖霊降臨祭と1712年の待節前までの間に、まとめて音楽が付されていった。
50曲に上るグラウプナーの自筆譜は今日ダルムシュタットの州立・大学図書館に収蔵されている。
ちなみに、このグラウプナーもバッハと少なからぬゆかりのあった人物である。1722年にライプチヒの市参事会がクーナウの後任のカントールとしてテレマンに声をかけたが断られた。そのテレマンの推薦でこのポストに応募したのがグラウプナーであった。
_____________[C. Graupner, Autograph der Kantate "Wir haben nicht mit Fleisch und Blut zu kämpfen"]
ところが採用が決まったものの、ダルムシュタット宮廷のエルンスト・ルートヴィヒ方伯がグラウプナーの放出を認めず、ライプチヒ市は「しぶしぶ」バッハと契約することになった。
グラウプナーが採用されていたら、バッハのカンタータや
受難曲は今ある形では存在していなかったかもしれない。
有名な話ではあるが、今日のわれわれの視点からは、
バッハのこの冷遇ぶりをにわかには信じがたい。
しかもグラウプナーはバッハが契約書にサインした後、
バッハの能力に太鼓判を押す推薦書を市参事会宛に
書いているほどだ。
[Landgraf Ernst Ludwig von Hessen-Darmstadt.
Gemälde aus der Werkstatt von Johann Christian Fiedler (1697-1765)]
早くも1713年にこの詩句集から2編をもとにソロカンタータを作曲していることから、当時ワイマールの宮廷
オルガニストだったバッハはこの詩句が出版されてすぐに入手したと考えられる。時節に合った詩句が手元になくてレームスの詩句集に触手を伸ばしたのか、何か別の理由でこの詩句集に思い当ったのかは知る由もないが、いずれにせよ上述のように1725年から26年にかけて、レームスの詩句集を元に6曲のカンタータが連続して作曲され、さらに同年7月と9月にもさらに2曲作曲された。
レームスは「主なる神よ、汝を我らは讃えん」のカンタータを「元旦の午後の祈り」のためだと記している。
新年とイエスの割礼・命名との関連はここからは見いだせない。むしろ神に対する賛美と神の慈悲に対する感謝に重きが置かれている。
冒頭はまず1529年ルター訳のテ・デウムで始まる。
続くレチタティーヴォがこれを受けて、神の救いや愛
静寂などを歌いあげる。すぐさま神殿が登場し、
情熱的な神への感謝の気持ちが謳われる。
これを受けて合唱付きのバスのアリアが歌われる。
やがて神の加護と平和、さらに国の存続と繁栄をも
祈る内容に移り、アルトのレティタティーヴォとなる。
続くテノールのアリアでは、作詞者オリジナルの
詩句でイエスに対する感謝の気持ちが歌われる。
レームスが作詞したのはここまでで、バッハの
カンタータでは教理問答として、1580年の
パウル・エーバーによる新年のための讃美歌
「神のみ心を讃えさせ給ふ」の最後の部分の
詩句が加わっている。
_____________________________________[Paul Eber im Ausschnitt aus seinem Epitaphs in der Stadtkirche
_________________________________________der Lutherstadt Wittenberg gemalt von Lucas Cranach d. J]
このようないきさつのカンタータ詩句に、バッハはどんな音楽をつけたのだろうか。
四行からなる冒頭のコラールはルター訳のテ・デウムドイツ語訳で、これをモテット風に処理している。
一行ごとに分割されているのは、旋律の教会旋法的な性格を考慮した結果であろう。
厳格で緊密な構成をとっているが、伝統的な交唱(アンティフォニー)を思わせるものとなっている。
歌唱の配役や歌い手の数が変化し、一番目と三番目のメロディラインはそれぞれ四声体で歌われ、
器楽は通奏低音と定旋律を補強するためのホルンのみである。それに対して二行目と四行目は旋律線に沿って弦楽器とオーボエ一本が加わり、これに第一ヴァイオリンと第一オーボエが独立した五番目の声部を奏でる。これにバスのレチタティーヴォとアリアが続く。このバスのアリアは複層的な構造となっていて、
ソロ歌唱と特徴的なトゥッティの部分とが交互に現れる。ホルンの印象的な響きも加わり、合唱と
管弦楽の処理がバスのソロ歌唱の個所では和声的に、合唱の部分は対位法的に処理される。
この壮麗なアリアに続いて、雰囲気が一転して神の加護と平和と祝福された繁栄を祈る厳かなアルトの
レチタティーヴォがくる。テノールのアリアでは声部に沿ってオブリガートのオーボエ・ダ・カッチャが単独で
低めの音で配置されている。1731年と1749年に上演された際にはヴィオラに置き換えられている。
表面的な効果を抑制した背景にはアリアの詩句の性格によるものであろう。と同時に、ヴィオラのいぶし銀のような響きが詩句の中に出てくる「宝物」や「富」を連想させるという演奏効果も考慮されたかもしれない。
実際に初期の作品でもこうした楽器編成が試みられているのだ。
最後はパウル・エーバーの新年用の讃美歌が歌われ、カンタータの幕を閉じる。
レオンハルトの録音が上がっていた。前半と後半。ちなみに前半の3曲目、2:52から登場する画像は
1735年、つまりバッハがカントールとして活躍していた頃のライプチヒ・トマス教会とその周辺である。
___パウル・エーバーの家族が祈りをささげている様子。ルター派の礼拝の雰囲気が伝わってくる。_____
_____ルターが95カ条の論台を張りだしたヴィッテンベルクの城内教会の墓碑に描かれているもの_____
[Paul Eber’s Familie im Ausschnitt aus seinem Epitaph in der Stadtkirche der Lutherstadt Wittenberg gemalt von Lucas Cranach d. J. selbstfotografiert gemeinfrei]
by fachwerkstrasse
| 2011-01-07 07:41
| 教会暦 カンタータ