まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です
by fachwerkstrasse
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ベルリン中央駅© 2010-2011 M.UNO
2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学
会議通訳修士課程 在籍中
日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員
[翻訳]
ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)
当ブログに掲載の文章・写真の無断転載を禁じます。写真下に
[©DFS] と記されている場合、著作権は全てブログ著者に帰します。それ以外の写真や引用は、その都度出典や著作権元を明示しております。
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冬時間の到来とともに「冬の旅」を想う
欧州では10月最終日曜日をもって冬時間に切り替わる。日本の最北端をしてドイツの南端と重なるほどの緯度なので、日照時間の変化が激しく、夏は時刻を一時間前倒しして、人間の活動時間と日照時間を合わているわけだ。
そしてドイツの冬の空はいつも雲に覆われていて太陽が照らない。「街に蓋をしたような冬の空(山之口洋 オルガニスト)」という表現が、ぴったり合っているので、僕はとても気に入っている。
だが、今月のドイツは比較的太陽がよく顔を出すので、まだ気分もそれほど陰鬱にはならない。
紅葉に覆われた山々が美しく、まさに「秋晴れ」だ。(ドイツ語では「黄金の秋」と言う)
_______[Heidelberg Landfriedstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______
夏の良い時期にドイツを訪れる日本人は、とりつかれたように表に出て、テラスでビールを飲み、日光浴をするドイツ人の姿をみて訝しがる。しかし最低でも365日ここに住めば、誰でも納得するのだ。ここの冬を一巡すれば、太陽が出るのは今しかない!とばかりに、みな戸外へ繰り出すのである。
僕も以前は、太陽が隠れてしまう冬を呪うというドイツ式メンタリティを見事に身につけていたが、最近はそうでもなくなってきた。なぜなら再び「冬の旅」が聴ける季節になってきたからだ。
暗く寒く寂寥感すら漂うドイツの冬。
4時や5時で真っ暗になり、クリスマス市が出るようになるまでは、現代文明を享受するこの時代にあってもなお、何もないのだ。
この「空気」に触れていないと、シューベルトの音楽は骨身にしみわたってこない。
逆に夏は封印しておいたセヴラックの音楽を待ってましたとばかりにむさぼり聴く。
陽光と木々の緑がなくては、この「『素敵な香りのする(ドビュッシー談)』あるいは『大地の香りがする(舘野泉談)』音楽」もそれ相応には響いてくれないからだ。
[Heidelberg Neuenheimer Landstraße 2009 © DFS All Rights Reserved]_______
ところで、個人社会だと言われるヨーロッパだが、実際のところ、人々は日本人よりもべったり寄り添って生きている。
おひとり様なんて価値観は、およそこちらで考えられるものではないし、実際社会生活上にも支障をきたすことすらある。
「孤独」は完全に否定的な概念だ。
嗚呼、しかしそんな孤独が否定的概念にならず、積極的な孤独同士が無邪気に交わることで、日常の中でも幸福を感じさせてくれる上に、創造力をも刺激される、そんなベルリンの居心地の良さが恋しい…
ま、それはさておき・・・
__________________[Berlin Eberstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]
だから内面に目を向け続けた詩人たちの孤独な世界は、実は「普通の」世界とはまるで異なる、いわば文化的にみたもう一つの側面と言った方がいいだろう。ただでさえマイノリティの芸術愛好家の中でも、本気であんな狂気すれすれの世界に共感している人なんて、まずいないのではないかしら。他ならなぬ芸術家たち本人から皮肉られている日和見主義的な芸術理解が実際はほとんどではないか。(もっとも「深淵」に蓋をしてあえてそれを見ないようにする、というのも芸術の主要命題ではあるが)
だが自分は元来「一カ月人と会わなくてもまったく平気だが、一週間ずっと人と一緒にいると発狂しそうになる」性質なのに加え、常日頃から詩人や音楽家の到達した普遍的高みを目指すべく、常に視線は遥か彼方に向けられているので、むしろ孤独を肯定的に捉えているし、そもそもが人間にとって孤独は必要なものであるとすら思っている。もう少し孤独を肯定的に捉えられないものだろうか?そして日常からの現実逃避として芸術があるのではなく、日常に変化をもたらす、ないしは日常を豊かにする別の広がりや精神的な豊かさをもたらすのが芸術なのではないだろうか。もちろん「芸術」と称して、実際はそうでない「芸当」の方がはるかに多いのだが…。
___[Heidelberg Schloß-Wolfsbrunnenweg 2010 © DFS All Rights Reserved]___
つまり本来の芸術の喜びと言うのは、一人ひとりの中に独自に醸成されるべきものであって、普段は内面にひっそりとたたずむデモニーッシュなものとの対峙を促す半ば命がけの営みなのだ。内面に潜む「死」「タナトス」「抑圧された衝動」。芸術は日常の皮相なな現実とは別の「内面における現実」を目の前に否応なしに突きつけてくる。シューベルトの音楽からは「死」の臭いがぷんぷんする。そんなものが他人とにこやかに共有しうるだろうか。つまりは元来それも孤独なものなのである。実際人間が死ぬ時は一人だ。無理心中や集団自殺はできても、死ぬという行為・現象を誰かと分かち合うことはできない。それに対して、不特定多数の聴衆に向けられた、個人を一つの大衆に仕立てあげて熱狂させる「陶酔」こそ、孤独を忌み嫌い、常にだれかと一緒にいたい、価値観も好みも常に誰かと共有していたい大衆としての聴き手の心理を見事についている。だが、どんなに「死」という現実から目をそらそうと、それはまやかしでしかないのだ。「現実」を直視する芸術家ないしそれを享受する者は、まさに「孤独」に徹し、犀の角のようにただ一人歩むのである。
そしてドイツの冬の空はいつも雲に覆われていて太陽が照らない。「街に蓋をしたような冬の空(山之口洋 オルガニスト)」という表現が、ぴったり合っているので、僕はとても気に入っている。
だが、今月のドイツは比較的太陽がよく顔を出すので、まだ気分もそれほど陰鬱にはならない。
紅葉に覆われた山々が美しく、まさに「秋晴れ」だ。(ドイツ語では「黄金の秋」と言う)
_______[Heidelberg Landfriedstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______
夏の良い時期にドイツを訪れる日本人は、とりつかれたように表に出て、テラスでビールを飲み、日光浴をするドイツ人の姿をみて訝しがる。しかし最低でも365日ここに住めば、誰でも納得するのだ。ここの冬を一巡すれば、太陽が出るのは今しかない!とばかりに、みな戸外へ繰り出すのである。
僕も以前は、太陽が隠れてしまう冬を呪うというドイツ式メンタリティを見事に身につけていたが、最近はそうでもなくなってきた。なぜなら再び「冬の旅」が聴ける季節になってきたからだ。
暗く寒く寂寥感すら漂うドイツの冬。
4時や5時で真っ暗になり、クリスマス市が出るようになるまでは、現代文明を享受するこの時代にあってもなお、何もないのだ。
この「空気」に触れていないと、シューベルトの音楽は骨身にしみわたってこない。
逆に夏は封印しておいたセヴラックの音楽を待ってましたとばかりにむさぼり聴く。
陽光と木々の緑がなくては、この「『素敵な香りのする(ドビュッシー談)』あるいは『大地の香りがする(舘野泉談)』音楽」もそれ相応には響いてくれないからだ。
[Heidelberg Neuenheimer Landstraße 2009 © DFS All Rights Reserved]_______
ところで、個人社会だと言われるヨーロッパだが、実際のところ、人々は日本人よりもべったり寄り添って生きている。
おひとり様なんて価値観は、およそこちらで考えられるものではないし、実際社会生活上にも支障をきたすことすらある。
「孤独」は完全に否定的な概念だ。
嗚呼、しかしそんな孤独が否定的概念にならず、積極的な孤独同士が無邪気に交わることで、日常の中でも幸福を感じさせてくれる上に、創造力をも刺激される、そんなベルリンの居心地の良さが恋しい…
ま、それはさておき・・・
__________________[Berlin Eberstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]
だから内面に目を向け続けた詩人たちの孤独な世界は、実は「普通の」世界とはまるで異なる、いわば文化的にみたもう一つの側面と言った方がいいだろう。ただでさえマイノリティの芸術愛好家の中でも、本気であんな狂気すれすれの世界に共感している人なんて、まずいないのではないかしら。他ならなぬ芸術家たち本人から皮肉られている日和見主義的な芸術理解が実際はほとんどではないか。(もっとも「深淵」に蓋をしてあえてそれを見ないようにする、というのも芸術の主要命題ではあるが)
だが自分は元来「一カ月人と会わなくてもまったく平気だが、一週間ずっと人と一緒にいると発狂しそうになる」性質なのに加え、常日頃から詩人や音楽家の到達した普遍的高みを目指すべく、常に視線は遥か彼方に向けられているので、むしろ孤独を肯定的に捉えているし、そもそもが人間にとって孤独は必要なものであるとすら思っている。もう少し孤独を肯定的に捉えられないものだろうか?そして日常からの現実逃避として芸術があるのではなく、日常に変化をもたらす、ないしは日常を豊かにする別の広がりや精神的な豊かさをもたらすのが芸術なのではないだろうか。もちろん「芸術」と称して、実際はそうでない「芸当」の方がはるかに多いのだが…。
___[Heidelberg Schloß-Wolfsbrunnenweg 2010 © DFS All Rights Reserved]___
つまり本来の芸術の喜びと言うのは、一人ひとりの中に独自に醸成されるべきものであって、普段は内面にひっそりとたたずむデモニーッシュなものとの対峙を促す半ば命がけの営みなのだ。内面に潜む「死」「タナトス」「抑圧された衝動」。芸術は日常の皮相なな現実とは別の「内面における現実」を目の前に否応なしに突きつけてくる。シューベルトの音楽からは「死」の臭いがぷんぷんする。そんなものが他人とにこやかに共有しうるだろうか。つまりは元来それも孤独なものなのである。実際人間が死ぬ時は一人だ。無理心中や集団自殺はできても、死ぬという行為・現象を誰かと分かち合うことはできない。それに対して、不特定多数の聴衆に向けられた、個人を一つの大衆に仕立てあげて熱狂させる「陶酔」こそ、孤独を忌み嫌い、常にだれかと一緒にいたい、価値観も好みも常に誰かと共有していたい大衆としての聴き手の心理を見事についている。だが、どんなに「死」という現実から目をそらそうと、それはまやかしでしかないのだ。「現実」を直視する芸術家ないしそれを享受する者は、まさに「孤独」に徹し、犀の角のようにただ一人歩むのである。
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