まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です
by fachwerkstrasse
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ベルリン中央駅© 2010-2011 M.UNO
2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学
会議通訳修士課程 在籍中
日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員
[翻訳]
ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)
当ブログに掲載の文章・写真の無断転載を禁じます。写真下に
[©DFS] と記されている場合、著作権は全てブログ著者に帰します。それ以外の写真や引用は、その都度出典や著作権元を明示しております。
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ドイツ木組みの家街道 -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-⑩ -
まずは泉のあるテラスから広場の奥を眺めてみよう。写真左手のパステル調の建物から。
________[Wetzlar Kornmarkt 2 2007 © DFS All Rights Reserved]_______
この穀物広場周辺には遅くとも中世後期には今のように建物が並んでいたらしく、この2番地にも1338年に「鏡家=Spiegel」と呼ばれる家があったことが確認されているが、遅くとも1687年の大火災で焼失している。そして現在の建物が建てられたのは1700年のこと。
ここには18-19世紀にかけて、最高裁の関係者が入れ替わり立ち替わり住んでいた。
その後、この建物は1811年にはとある地元の一家の持ち家となり、1892年にはプロテスタント系の徒弟組合に売却された。伝統的な徒弟制度のもとで、一人前の職人を目指す若者たちは、各地の親方のもとを転々としていたわけだが、そのような遍歴の徒弟たちに宿を提供していたのである。
(蛇足ながら「冬の旅」や「美しき水車小屋の娘」で歌われているのも、まさにこのような遍歴の途上における孤独と絶望の世界である)
売却時には大規模な改装も行われ、門のアーチが、建物の左側から現在の真ん中に移され、玄関部分も改造された。それに合わせてアーチの左側の部分の壁も新たに築かれた。第二次大戦時には建物が被害を受けている。1961年には市の所有となった。
7本の軸組構造による木造建築で、スレート吹きの切妻屋根の上の4階にあたる部分、写真でもわかる通り三角形の切妻部分に屋根裏部屋がしつらえてある。平入り4階建て(ドイツ風に言うと3階建て)の木組み建築だが、漆喰塗の壁なので木材の骨組み部分は外からは見えない。
広場に面した漆喰塗りのファサード部分は各階ごとに段がつけられ、穀物広場の景観を美しく彩っている。
________[Wetzlar Kornmarkt 2 2007 © DFS All Rights Reserved]_______
この穀物広場周辺には遅くとも中世後期には今のように建物が並んでいたらしく、この2番地にも1338年に「鏡家=Spiegel」と呼ばれる家があったことが確認されているが、遅くとも1687年の大火災で焼失している。そして現在の建物が建てられたのは1700年のこと。
ここには18-19世紀にかけて、最高裁の関係者が入れ替わり立ち替わり住んでいた。
その後、この建物は1811年にはとある地元の一家の持ち家となり、1892年にはプロテスタント系の徒弟組合に売却された。伝統的な徒弟制度のもとで、一人前の職人を目指す若者たちは、各地の親方のもとを転々としていたわけだが、そのような遍歴の徒弟たちに宿を提供していたのである。
(蛇足ながら「冬の旅」や「美しき水車小屋の娘」で歌われているのも、まさにこのような遍歴の途上における孤独と絶望の世界である)
売却時には大規模な改装も行われ、門のアーチが、建物の左側から現在の真ん中に移され、玄関部分も改造された。それに合わせてアーチの左側の部分の壁も新たに築かれた。第二次大戦時には建物が被害を受けている。1961年には市の所有となった。
7本の軸組構造による木造建築で、スレート吹きの切妻屋根の上の4階にあたる部分、写真でもわかる通り三角形の切妻部分に屋根裏部屋がしつらえてある。平入り4階建て(ドイツ風に言うと3階建て)の木組み建築だが、漆喰塗の壁なので木材の骨組み部分は外からは見えない。
広場に面した漆喰塗りのファサード部分は各階ごとに段がつけられ、穀物広場の景観を美しく彩っている。
by fachwerkstrasse
| 2010-10-28 21:09
| ドイツ木組みの家街道