まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です
by fachwerkstrasse
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ベルリン中央駅© 2010-2011 M.UNO
2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学
会議通訳修士課程 在籍中
日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員
[翻訳]
ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)
当ブログに掲載の文章・写真の無断転載を禁じます。写真下に
[©DFS] と記されている場合、著作権は全てブログ著者に帰します。それ以外の写真や引用は、その都度出典や著作権元を明示しております。
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次世代の演奏家たち (前置き)②
芸術について論じるのは、個々人の趣味だという意見もあろうが、あえてそれが間違いであると、この場では言わせて頂こう。
誤解のないように言い添えておくと、別に自分の好みが正しくて他人の好みが間違っているとか、そんなことを言っているのではない。いくらなんでも、そこまで傲慢ではない。
そうではなくて、自分の好き嫌いで判別してよいものと、個人の趣味を超越したところにあるものとがあって、後者に対しては自分の価値判断だけでよしあしを判断するのは軽率だと、こういうわけである。
自分はヘヴィ・メタルが大好きだ。プログレも素晴らしいと思うし、さらにモロ自分の好みということになれば、80年代のスペクターサウンド(音の壁)が大好きで、これさえ聴いていれば、他には何もいらないと思ってしまう。G.G. Andersonや岩崎元是なんかツボである。ポップスの中では(メタルもそうだけど)英国モノが好きだ。シンプリーレッドは今年最後のツアーをやると言っているが、残念だなぁ。
しかし、これらを一方では自分はどうでもいいものだと思っている。もしこの世からなくなってしまったら残念だと思うが、一方ではなくなった方が人類のためであるとも思っている。自分にとって大切だが、所詮は自分が好きであるに過ぎない。
個々人の好みを手放しで肯定できないのは、例えばこう考えればわかると思う。
体のことを考えたら、バランスのとれた健康的な食事をとることが大切だ。しかし実際には、野菜が嫌いな人、脂っこいものや甘いものが大好きな人、酒やタバコが好きな人、加工食品ばかり食べている人、と様々だと思う。だが、そんな食生活を続けていると、やがて体を壊してしまう。しかしストレスを感じたら、タバコも吸いたくなるだろう。体を壊しては元も子もないが、人間必ずしも「いいもの」だけでは生活していけないものだ。
精神的な栄養に関しても同じことがいえるのではないか。自分が芸術を貪欲に摂取しようとしているのも、まさに精神の健康のためだ。しかしそうはいっても、まじめな音楽だけでは疲れてしまうので、たまには好きな音楽も聴きたくなる。そんな時には、そんな弱い自分を一方で苦笑しながら、しばしの休息を得るのだ。
個人の趣味を超越した、人類にとっての遺産と言う意味では、所謂「クラシック音楽」(この呼称はかなり問題あるものだと思っているが、目下これにかわる通称が見当たらないのだから、仕方がない}の価値の方がはるかに高い。
そんな中でも大バッハや、それ以前のバロック・ルネサンス、さらには中世から古代にかけての音楽の価値は、19世紀に一般市民を聴衆とするようになった音楽よりも、さらに遥かなる地平を切り拓いている。
もっとも、今我々が耳にすることのできるこれらの音楽が本当にしかるべき姿なのかは、大いに疑問の余地があるが、それでも素晴らしいものであることは十分うかがい知れるのだから。特にバッハ、その時代ごとに様々な姿で我々の前に現前し、バッハについての様々な試行錯誤や葛藤、研究調査は、他の作曲家の場合をはるかにしのぐ豊かな実りをもらたしてくれる。たとえ結果的にそれが間違っていたとしても、だ。
これはもちろん、時代の流れを経て、様々な研究と啓蒙普及活動のおかげで、そのような「規範化」が行われているのではあるが、はたしてプロ・アマ問わず、実際にこれらの音楽に携わっている人達の率直な思いとして、それらが底知れぬ素晴らしさを兼ね備えていること、最初はとっつきにくく理解するのも大変だが、その壁を越えた向こうにある豊饒な世界の存在を確信しているのだ。(かく言う自分も、及ばずながらその一端を垣間見せてもらっていると思っている。そしてまさにそれこそが、芸術に情熱を注ぐ一番の理由ではないか!
だから、人類が獲得した遥かなる崇高な世界、今の時代の所与に留まっていたのでは到達できない高みを目指す第一歩を踏み出す上で、古いものに目を向けるという姿勢はとても大切だと思うのだ。しかし、今の物質的に豊かな時代では、新しいことに専ら価値が置かれている。
だが、例えば数千年間蓄積されてきた文化遺産とここ一年の新しい文化的営みをそれぞれ一覧にしてみた場合、数の上では圧倒的に後者の方が勝るだろう。だが、その重みや重要性はどちらの方がはたして上だろうか。後者のうち、本当に我々に精神的な充足感を与え、知的な議論の題材となり、前者と同じように後世に残っていくものが、はたしてどのくらいあるだろうか。
演奏家に限らず「新しい」ことの最大の落とし穴はここだ。ポップ・カルチャーでは、この「新しい」ことが最大のポイントであったりもするが、時間がたってみないと、それが「新しさ」のみのニセモノだったのか、永遠に残りうるものだったのかは、わからない。
例えば、今のHMを聴くくらいなら、ブラック・サバスさえ聴いていれば、結局それ以降のHMのエッセンスは全てそこにあるし、(影響を及ぼしたとみるか、そこから進化してないとみるべきか…) 洪水のように溢れ出るポップスの新譜に手を伸ばすくらいなら、マディ・ウォーターズやエディ・ボイドを聴いている方が、よっぽど充実のひと時を過ごせるというものだ。(デルタ・ブルースまでいくと、さすがに録音が古すぎるしなぁ)
ズバリ言ってしまえば、20世紀の大衆音楽なんて、表現形態が多少変わったくらいで、所詮はみんなロバート・ジョンソンの焼き直しにすぎない。そんな中で、確立されたものと新しさと、人気とは必ずしも一致しない職人的な演奏能力の高さと、大衆的人気のバランスを最良の形で体現している、おそらく最後の存在がアイアン・メイデンだと思う。(もちろん、大衆音楽という枠内での話)

___[Ludwigshafen, Südwest-Stadion, 8 Jun 2007 © DFS All Rights Reserved]____
考えてみれば「古典」として定着しているものも、同時代の「新しい」ものとせめぎ合って来た中で生き残ってきたものなのだ。だから新しいものにとびつくよりも、古いものの評価を信じて選択した方が、当たる確率は大きい。
そして、人間が芸術に接する目的とは、その普遍なるものに如何に近づけるか、そのためのいわばトレーニングのようなものであると考えている。アーノンクールが言うように、我々の「目を開かせる」ためであり、単なる癒しやリラックスのための娯楽ではないのである。

_______[Stuttgart Staatstheater 2009 © DFS All Rights Reserved]_______
以上を踏まえて、自分が演奏家について判断する基準は以下のとおりである。
① 演奏家が「王様」になっていないこと。演奏家は作品に対する「しもべ」であり、演奏家が自分を誇示するために演奏をすることはならない
② 伝統にあぐらをかいていないこと
一口に「楽譜に忠実」といっても、作品の解釈は日進月歩。特に20世紀後半から楽譜の校訂が進み、出来る限り作曲者の本来の意図を反映できるように、様々な調査研究が行われている。当然昔の演奏を聴く際には、その辺は割引いて評価する必要があるが、たとえ演奏家として評価を築いた人であっても、このような研究の動向には注意を向けておくべきである。
20世紀中ごろまでは「演奏」において一つの伝統が確立されてきていた。演奏家が絶大な権力を誇っていた時代には、それでもよかったのだが、現在ではできるだけそうした埃を取り払った、中立的な演奏が試みられている。それの善しあしはさておくとして、現代のそのような潮流にあっても、いやむしろかえってそのために、非常に個性的な刺激的な演奏家が出てきているのである。特にこういった人達をとりあげていきたい。
誤解のないように言い添えておくと、別に自分の好みが正しくて他人の好みが間違っているとか、そんなことを言っているのではない。いくらなんでも、そこまで傲慢ではない。
そうではなくて、自分の好き嫌いで判別してよいものと、個人の趣味を超越したところにあるものとがあって、後者に対しては自分の価値判断だけでよしあしを判断するのは軽率だと、こういうわけである。
自分はヘヴィ・メタルが大好きだ。プログレも素晴らしいと思うし、さらにモロ自分の好みということになれば、80年代のスペクターサウンド(音の壁)が大好きで、これさえ聴いていれば、他には何もいらないと思ってしまう。G.G. Andersonや岩崎元是なんかツボである。ポップスの中では(メタルもそうだけど)英国モノが好きだ。シンプリーレッドは今年最後のツアーをやると言っているが、残念だなぁ。
しかし、これらを一方では自分はどうでもいいものだと思っている。もしこの世からなくなってしまったら残念だと思うが、一方ではなくなった方が人類のためであるとも思っている。自分にとって大切だが、所詮は自分が好きであるに過ぎない。
個々人の好みを手放しで肯定できないのは、例えばこう考えればわかると思う。
体のことを考えたら、バランスのとれた健康的な食事をとることが大切だ。しかし実際には、野菜が嫌いな人、脂っこいものや甘いものが大好きな人、酒やタバコが好きな人、加工食品ばかり食べている人、と様々だと思う。だが、そんな食生活を続けていると、やがて体を壊してしまう。しかしストレスを感じたら、タバコも吸いたくなるだろう。体を壊しては元も子もないが、人間必ずしも「いいもの」だけでは生活していけないものだ。
精神的な栄養に関しても同じことがいえるのではないか。自分が芸術を貪欲に摂取しようとしているのも、まさに精神の健康のためだ。しかしそうはいっても、まじめな音楽だけでは疲れてしまうので、たまには好きな音楽も聴きたくなる。そんな時には、そんな弱い自分を一方で苦笑しながら、しばしの休息を得るのだ。
個人の趣味を超越した、人類にとっての遺産と言う意味では、所謂「クラシック音楽」(この呼称はかなり問題あるものだと思っているが、目下これにかわる通称が見当たらないのだから、仕方がない}の価値の方がはるかに高い。
そんな中でも大バッハや、それ以前のバロック・ルネサンス、さらには中世から古代にかけての音楽の価値は、19世紀に一般市民を聴衆とするようになった音楽よりも、さらに遥かなる地平を切り拓いている。
もっとも、今我々が耳にすることのできるこれらの音楽が本当にしかるべき姿なのかは、大いに疑問の余地があるが、それでも素晴らしいものであることは十分うかがい知れるのだから。特にバッハ、その時代ごとに様々な姿で我々の前に現前し、バッハについての様々な試行錯誤や葛藤、研究調査は、他の作曲家の場合をはるかにしのぐ豊かな実りをもらたしてくれる。たとえ結果的にそれが間違っていたとしても、だ。
これはもちろん、時代の流れを経て、様々な研究と啓蒙普及活動のおかげで、そのような「規範化」が行われているのではあるが、はたしてプロ・アマ問わず、実際にこれらの音楽に携わっている人達の率直な思いとして、それらが底知れぬ素晴らしさを兼ね備えていること、最初はとっつきにくく理解するのも大変だが、その壁を越えた向こうにある豊饒な世界の存在を確信しているのだ。(かく言う自分も、及ばずながらその一端を垣間見せてもらっていると思っている。そしてまさにそれこそが、芸術に情熱を注ぐ一番の理由ではないか!
だから、人類が獲得した遥かなる崇高な世界、今の時代の所与に留まっていたのでは到達できない高みを目指す第一歩を踏み出す上で、古いものに目を向けるという姿勢はとても大切だと思うのだ。しかし、今の物質的に豊かな時代では、新しいことに専ら価値が置かれている。
だが、例えば数千年間蓄積されてきた文化遺産とここ一年の新しい文化的営みをそれぞれ一覧にしてみた場合、数の上では圧倒的に後者の方が勝るだろう。だが、その重みや重要性はどちらの方がはたして上だろうか。後者のうち、本当に我々に精神的な充足感を与え、知的な議論の題材となり、前者と同じように後世に残っていくものが、はたしてどのくらいあるだろうか。
演奏家に限らず「新しい」ことの最大の落とし穴はここだ。ポップ・カルチャーでは、この「新しい」ことが最大のポイントであったりもするが、時間がたってみないと、それが「新しさ」のみのニセモノだったのか、永遠に残りうるものだったのかは、わからない。
例えば、今のHMを聴くくらいなら、ブラック・サバスさえ聴いていれば、結局それ以降のHMのエッセンスは全てそこにあるし、(影響を及ぼしたとみるか、そこから進化してないとみるべきか…) 洪水のように溢れ出るポップスの新譜に手を伸ばすくらいなら、マディ・ウォーターズやエディ・ボイドを聴いている方が、よっぽど充実のひと時を過ごせるというものだ。(デルタ・ブルースまでいくと、さすがに録音が古すぎるしなぁ)
ズバリ言ってしまえば、20世紀の大衆音楽なんて、表現形態が多少変わったくらいで、所詮はみんなロバート・ジョンソンの焼き直しにすぎない。そんな中で、確立されたものと新しさと、人気とは必ずしも一致しない職人的な演奏能力の高さと、大衆的人気のバランスを最良の形で体現している、おそらく最後の存在がアイアン・メイデンだと思う。(もちろん、大衆音楽という枠内での話)

___[Ludwigshafen, Südwest-Stadion, 8 Jun 2007 © DFS All Rights Reserved]____
考えてみれば「古典」として定着しているものも、同時代の「新しい」ものとせめぎ合って来た中で生き残ってきたものなのだ。だから新しいものにとびつくよりも、古いものの評価を信じて選択した方が、当たる確率は大きい。
そして、人間が芸術に接する目的とは、その普遍なるものに如何に近づけるか、そのためのいわばトレーニングのようなものであると考えている。アーノンクールが言うように、我々の「目を開かせる」ためであり、単なる癒しやリラックスのための娯楽ではないのである。

_______[Stuttgart Staatstheater 2009 © DFS All Rights Reserved]_______
以上を踏まえて、自分が演奏家について判断する基準は以下のとおりである。
① 演奏家が「王様」になっていないこと。演奏家は作品に対する「しもべ」であり、演奏家が自分を誇示するために演奏をすることはならない
② 伝統にあぐらをかいていないこと
一口に「楽譜に忠実」といっても、作品の解釈は日進月歩。特に20世紀後半から楽譜の校訂が進み、出来る限り作曲者の本来の意図を反映できるように、様々な調査研究が行われている。当然昔の演奏を聴く際には、その辺は割引いて評価する必要があるが、たとえ演奏家として評価を築いた人であっても、このような研究の動向には注意を向けておくべきである。
20世紀中ごろまでは「演奏」において一つの伝統が確立されてきていた。演奏家が絶大な権力を誇っていた時代には、それでもよかったのだが、現在ではできるだけそうした埃を取り払った、中立的な演奏が試みられている。それの善しあしはさておくとして、現代のそのような潮流にあっても、いやむしろかえってそのために、非常に個性的な刺激的な演奏家が出てきているのである。特にこういった人達をとりあげていきたい。
by fachwerkstrasse
| 2010-10-18 16:02
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