まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


by fachwerkstrasse

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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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ゲーテの足跡を訪ねて -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-③ -

ここからは、これから順次執筆予定の「ゲーテの足跡を訪ねて」のカテゴリで進めていきます。
街の前史に関しては、木組み街道カテゴリ収録のをご覧ください。

ストラスブール大学の法学部を無事に卒業したゲーテ。だが学位はLizenziat(=ライセンス、要するに職業資格で、学位制度上は今日の修士号にだいたい相当する位置づけ)といって、当時の一般的な大卒学位であった博士号は取得できなかった。立法制度について論じた学位請求論文に教会制度を攻撃する内容が盛り込まれていたことが問題視されたのである。

件の論文自体は消失しているが、疾風怒濤前のゲーテのこととて、おそらくほとばしるように、ひょっとしたら学術論文の「お約束」をも無視しながらラテン語の卒業論文を熱く書きあげたのではないだろうか。だが、そんな論文で博士号を授与したら、大学当局までもが連帯責任で宗教権威への反旗を翻したも同然となる。スキャンダルになることを恐れた教授会は、弁護士として開業はしてもいいよ、という職業資格を授与することで、なんとかお茶を濁したわけだ。

(ストラスブール大聖堂に感銘を受けたゲーテは、この「ゴシック建築」を「偉大なるドイツ精神の体現」だとした。これがのちのロマン主義におけるゴシック再評価につながり、ケルン大聖堂はその流れを受けて19世紀に完成された。)
ゲーテの足跡を訪ねて -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-③ -_b0206899_064270.jpg

_______[das Straßburger Münster 2009 © DFS All Rights Reserved]______

病気でライプチヒでの大学生活を中断したゲーテが、フランクフルトの実家で療養中に母の友人であったクレッテンベルクという修道女から、敬虔主義の感化を受ける。同時に神秘思想や錬金術にも触れ、これが後のファウストへの足がかりとなる。この頃にゲーテの宗教観が形成されていったと考えられる。それは既存の組織や慣習といった形にとらわれるのではない、人間の感情や自然をありのままに肯定し、直接的な「神」の体験ないしは神秘的合一を目指すものである。当然ながらこれは教会の存在やその権威を否定することになるので異端であり、当時でもまだまだ危険な考えであった。実際ゲーテはスピノザも研究するが、そのことを大っぴらに言うことはまだできなかったという。

ヴェッツラーに限らず、古いドイツの街中をほんの10分でも散策すれば、市街地の中心をなす大聖堂はいやでも目につく。しかし後にこの町を世界的に有名にしてしまった半自叙伝的小説の中で、自然描写が情熱的かつ詳細になされているのに比して、堂々とそびえるあの大聖堂には一言も触れられていない。すでにこの時点で教会権威に反感を持っていた若きゲーテの、汎神論的な世界観ゆえとみて、まずよいだろう。

(冬のヴェッツラー。ラーン川沿いの丘の上に街が築かれ、大聖堂がてっぺんに聳える)
ゲーテの足跡を訪ねて -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-③ -_b0206899_2357138.jpg

______[Wetzlar, Dom und Altstadt 2009 © DFS All Rights Reserved]______

フランクフルトに戻って弁護士として開業したゲーテだが、仕事はまったくやる気なし。訴状をこしらえ法廷弁論を行っても、当時の慣習からはおよそかけ離れたものばかりで、仕事にならない。見かねた父親が代わりに仕事を引き受ける有様だが、それをいいことに息子は文筆思索にふける毎日。

父親はギーセン大学を卒業した同じく弁護士で、几帳面に黙々と仕事をこなす典型的なドイツ的職業人であったらしいが、後にワイマールで息子が任官されるようになっても仕送りをしていたらしいから、やはり息子がかわいくて仕方がなかったのだろう。しかし文化史的にはこれほど意義ある将来投資は例を見なかったといえる。ゲーテ家の息子は「鉄腕ゲッツ」の物語を一気呵成に書きあげ、戯曲として推敲し、2年後に自費出版。従来の演劇観を打ち破る画期的な作品として瞬く間に評判となり、時代的にはこれを持って「疾風怒濤」の時代に入ることになる。

仕事に身が入らない息子を見かねて、父親はヴェッツラーにある神聖ローマ帝国の最高裁判所にあたる帝国最高法院(Reichskammergericht)での司法修習(職業訓練)に息子を送り込む。しかし、よもやそれがさらなる「文学的」進歩を促すことになろうとは、その時誰が予想しえただろうか…。
by fachwerkstrasse | 2010-10-07 23:50 | ゲーテの足跡を訪ねて