まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です
by fachwerkstrasse
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ベルリン中央駅© 2010-2011 M.UNO
2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学
会議通訳修士課程 在籍中
日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員
[翻訳]
ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)
当ブログに掲載の文章・写真の無断転載を禁じます。写真下に
[©DFS] と記されている場合、著作権は全てブログ著者に帰します。それ以外の写真や引用は、その都度出典や著作権元を明示しております。
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なぜ「木組み街道?」 - (13) - 過去との対峙 -
なお、消え去ったドイツの街並みばかりを憂いている文言になってしまっていたので、補足しておく。確かに、これらの貴重な街並みを消し去ったのは連合国側なのだが、無差別爆撃を最初に開始したのは他ならぬナチスドイツである。(同時期の日本も同様)有名なゲルニカをはじめ、侵攻したポーランドにおいても、徹底的な殺戮と破壊を行った。最終的にその矛先は他ならぬドイツに跳ね返ってきたわけである。
________________(爆撃後のゲルニカ)_______________
________(Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jp)________
その根底にある思想は、ゲルマン民族のみが優秀であり、他は取るに足らぬものだから、消し去ってしまわなくてはならない、というような、あまりにもお粗末な集団的狂気である。そして敗戦の色が濃くなってくると、逆にそんな腰ぬけのドイツなど消えてしまえと、ますます狂気じみた考えが政権中枢を駆け巡っていた。
パリが連合軍に奪還されそうになると、ヒトラーはパリの破壊命令を出しているほどである。パリは燃えているか!の狂気じみたセリフ(および同名の映画)は、あまりにも有名だ。もし命令が実行されていたら・・・と思うとぞっとする。(ただし、実際には街全体を破壊できるだけの弾薬はなかったらしい)
この程度のリスク管理能力の人間たちが権力を握り、人類共通の文化遺産と多くの尊い命を自分達の狂気のために弄んだことには、心底腹が立つ。(もっともナチスに投票して政権の座に送り込んだのは、他ならぬドイツ国民だが) ドイツ降伏の一ヵ月半前にヒトラーはドイツ全土の焦土命令(所謂ネロ命令)を下した。「敗戦が決定的である以上、ドイツ民族はもはや生きるに値しない、ただ滅びゆくのみ」などと捨て台詞を吐き、人類史上最悪の独裁者は自殺していった。
(映画『ヒトラー~最期の12日間~』 ヒトラーの「人間」に焦点を当て、孤立してゆく独裁者の末路を描いた作品として、公開当時は大いに物議をかもした)
つまるところ、廃墟と化したドイツの街の惨状は、世界都市ゲルマニアを実現できなかった独裁者の思惑どおりだった、ないしは呪いであったともいえるのである。わずか12年の間にドイツがそれまでに築き上げてきた文化的・精神的遺産を徹底的に悪用し、それを灰燼に帰してナチスは滅びて行った。地獄へと道連れにしたといってもいいだろう(丸山正男は、ヒトラーが財界から献呈されたワグナーの自筆譜をあの世に道連れにした可能性を示唆していた)敗北を予期したヒトラーがここまで考えて、一つのストーリーを構築していたとしたら、恐るべき話だ。
戦後のドイツ語圏の文化は、それまでの古典的文化の解釈であろうと、新たな創作に際しても、この負の歴史といかに向き合うか、というテーマを無視してはいられなくなった。デュレンマットのように、推理小説ですら、ナチスの犯罪がテーマとなっているほどである。そして戦後に所謂「ドイツ的Deutschtum」な要素を引きずっていた芸術家たちは、一気に評価を下げ、忘れ去られてしまう。今でもとりわけ若い世代には、古典的教養や我々日本人がイメージするところの「ドイツ的」なものに対する拒否感は強い。
そういうこともあって、はるばる遠くからドイツを訪れて歴史の跡を訪ね歩く日本人の姿は、ドイツ人にとって驚きなのである。自分もこれまで行く先々で何度尋ねられたことか…
「どうして日本人はあんなに熱心にバッハを聴くの?」
バッハが両親の死後に暮らしていたOhrdrufの博物館の学芸員の方
「日本でクラシック音楽が浸透するようになったのには、どういう背景があるの?」
知り合いのドイツ人のご婦人
「日本でドイツの古典文化があれほど知られているのは、とても信じられない、いったいどうして?」
ドイツ人学生
「おたくはドイツ文学を勉強なさっていると!?やれやれ、これだけたくさんの日本人がゲーテのことを知っていて、はるばるここまで来るというのに、私は日本文学のことなど何も知らない、お恥ずかしい限りだ」
フランクフルトのゲーテ博物館の学芸員の方
_______[Eisenach, Lutherstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]_______
因みにBachhausは博物館ではあっても「生家」ではない、早く誰か訂正してあげればいいのに…
________________(爆撃後のゲルニカ)_______________
________(Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jp)________
その根底にある思想は、ゲルマン民族のみが優秀であり、他は取るに足らぬものだから、消し去ってしまわなくてはならない、というような、あまりにもお粗末な集団的狂気である。そして敗戦の色が濃くなってくると、逆にそんな腰ぬけのドイツなど消えてしまえと、ますます狂気じみた考えが政権中枢を駆け巡っていた。
パリが連合軍に奪還されそうになると、ヒトラーはパリの破壊命令を出しているほどである。パリは燃えているか!の狂気じみたセリフ(および同名の映画)は、あまりにも有名だ。もし命令が実行されていたら・・・と思うとぞっとする。(ただし、実際には街全体を破壊できるだけの弾薬はなかったらしい)
この程度のリスク管理能力の人間たちが権力を握り、人類共通の文化遺産と多くの尊い命を自分達の狂気のために弄んだことには、心底腹が立つ。(もっともナチスに投票して政権の座に送り込んだのは、他ならぬドイツ国民だが) ドイツ降伏の一ヵ月半前にヒトラーはドイツ全土の焦土命令(所謂ネロ命令)を下した。「敗戦が決定的である以上、ドイツ民族はもはや生きるに値しない、ただ滅びゆくのみ」などと捨て台詞を吐き、人類史上最悪の独裁者は自殺していった。
(映画『ヒトラー~最期の12日間~』 ヒトラーの「人間」に焦点を当て、孤立してゆく独裁者の末路を描いた作品として、公開当時は大いに物議をかもした)
つまるところ、廃墟と化したドイツの街の惨状は、世界都市ゲルマニアを実現できなかった独裁者の思惑どおりだった、ないしは呪いであったともいえるのである。わずか12年の間にドイツがそれまでに築き上げてきた文化的・精神的遺産を徹底的に悪用し、それを灰燼に帰してナチスは滅びて行った。地獄へと道連れにしたといってもいいだろう(丸山正男は、ヒトラーが財界から献呈されたワグナーの自筆譜をあの世に道連れにした可能性を示唆していた)敗北を予期したヒトラーがここまで考えて、一つのストーリーを構築していたとしたら、恐るべき話だ。
戦後のドイツ語圏の文化は、それまでの古典的文化の解釈であろうと、新たな創作に際しても、この負の歴史といかに向き合うか、というテーマを無視してはいられなくなった。デュレンマットのように、推理小説ですら、ナチスの犯罪がテーマとなっているほどである。そして戦後に所謂「ドイツ的Deutschtum」な要素を引きずっていた芸術家たちは、一気に評価を下げ、忘れ去られてしまう。今でもとりわけ若い世代には、古典的教養や我々日本人がイメージするところの「ドイツ的」なものに対する拒否感は強い。
そういうこともあって、はるばる遠くからドイツを訪れて歴史の跡を訪ね歩く日本人の姿は、ドイツ人にとって驚きなのである。自分もこれまで行く先々で何度尋ねられたことか…
「どうして日本人はあんなに熱心にバッハを聴くの?」
バッハが両親の死後に暮らしていたOhrdrufの博物館の学芸員の方
「日本でクラシック音楽が浸透するようになったのには、どういう背景があるの?」
知り合いのドイツ人のご婦人
「日本でドイツの古典文化があれほど知られているのは、とても信じられない、いったいどうして?」
ドイツ人学生
「おたくはドイツ文学を勉強なさっていると!?やれやれ、これだけたくさんの日本人がゲーテのことを知っていて、はるばるここまで来るというのに、私は日本文学のことなど何も知らない、お恥ずかしい限りだ」
フランクフルトのゲーテ博物館の学芸員の方
_______[Eisenach, Lutherstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]_______
因みにBachhausは博物館ではあっても「生家」ではない、早く誰か訂正してあげればいいのに…
by fachwerkstrasse
| 2010-10-01 23:56
| なぜ木組み街道?