まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


by fachwerkstrasse

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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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円熟した演奏

ちなみに、先の許光俊氏のコラムで触れているチッコリーニだが、ここ10年程の間定期的に日本を訪れているのに、一度もタイミングが合わず聞き逃している、痛恨の極み。

あと格安のチケット代にも触れられているが、確かにピアノを中心にソリストの演奏会だと、日本の方がむしろ安いのではないかと思うことがある。歌劇場引っ越し公演などは、逆に目玉が飛び出るような値段だ。むかし、ベルリン国立歌劇場がクプファーの演出、バレンボイムの指揮で「指輪」をやりに来た時は、一番安い席でも4講演セット券で大卒初任給と同じくらいだった。

思うに、ソリストの演奏会企画は場所を問わず民営のマネージメントや団体が切り盛りしているのに対して、オペラやオーケストラなどには企画段階から国立の劇場でなされていることから税金の投入規模が違うのだろうと思う。結果として、来日公演は当然公的扶助の対象外なので、日本では法外な値段、逆に器楽曲は(の方がむしろ)日本では人気があるし、経費もかからない。おそらくそういう背景があるのだろう。

ただし、ソリストの演奏会でもドイツで学割が適用されれば話は別。一回の軽い食事くらいの値段で一流の演奏を特等席で楽しむことができる。いずれにしても、若いうちにドイツに行って、大学に学籍登録をして、歌劇場に通い詰めないと、本当にもったいない!
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[Frankfurt Alte Oper 2009 © DFS All Rights Reserved]

さて、チッコリーニは録音も精力的に行っているが、CDでも聞いて、確かに円熟味を聴かせているのだろうなというのはわかるのだけど、やっぱりこれは生で聴きたい、同じ空間で音を聴かないと伝わらないものがあるはずだ、というのが(逆説的に)ひしひしと伝わってくる。こういう「円熟味」を体験できるのは時間的にも限られているので、ある意味木組みの家より貴重だし(笑)なにはさておき聞いておかなければならない。はたしてそのチャンスは巡ってくるのだろうか? 

そういえば、今年の五月にはネルソン・フレイレを聴きに行ったはずが、病気でドタキャンし、舞台に登場したのはブレハッチ。円熟味を期待して行った身としては、ピンチヒッターには申し訳ないが、余計に不満が募る結果となってしまったのである。しかもこの日は、フランクフルトにガーディナーロ短調ミサを上演しに来ていたのを、わざわざフレイレに賭けていったので、カネよりも「ガーディナーかえせー!」である。

年齢順でいくと、ガーディナーよりはフレイレを優先したわけだが、ブレハッチなんて、これからいくらでも聴けるんだから、だったらむしろこれがラストチャンスかもしれないガーディナーのロ短調ミサをとってたところ!!(HPにはフレイレ降板は一切告知されておらず、当日券の売り場でも告知なし、チケットにも記載なし、本番始まってから主催者が舞台に登場し、ブレハッチの登場を聴衆に告げる… もう少し情報処理はきちんとして下さいよ、S音楽祭の主催者さん…)まぁ、こういうハプニングが起こるのもナマモノの演奏芸術ならではなのである。
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[Schloss Schwetzingen Mozart Saal 2010 © DFS All Rights Reserved]

それはともかく、こうした円熟味でもっとも印象に残っているのは、ラローチャだ。最後の海外ツアーの日本公演を聴けたのは本当に良かった。(自ら引き際を決め「これが最後の海外ツアー」と宣言して各地で公演を行った)あの時は初めて芸術家の体から「オーラ」が出ているのが見えた。感じたんじゃなくて、本当に体を包む青白い炎のようなものが見えたのである。

はたして演奏はまるで天国から降り注いでいるかのような、いやまさに天国そのものだった。対位法とロマン派の書法を極めたショパンが晩年に行きついた境地に見事に合致した名演。 あれだけ「天」を感じさせる幻想ポロネーズは後にも先にもない。

青柳いづみこ氏は、新聞に掲載された論評で、その「枯れた」演奏に違和感を感じておられたようだが、ショパンの晩年は、まさに枯れていなくてはならないのだ!ショパンよりもはるかに長生きして、ピアニスト・教師として絶大な影響を後世に及ぼしたリストのせいで、ピアノ演奏の可能性は大幅に狭められてしまった。現在のショパン解釈の9割方は、ショパン自身が嫌悪感をもよおしていたリストの影響下にある。

「ラローチャ有終の美」 青柳いづみこ 2003年5月15日 朝日新聞

少し不満だったのは「幻想ポロネーズ」。病魔に侵された作曲家のおさえがたい生への未練が生々しい官能の形をとって表れる作品だが、彼女にはそうした執着はないように見えた。「舟歌」など、既に彼岸に渡ってしまっているのではないかと思ったほど。

まぁ、これらの演奏会については、また時期を改めてここで取り上げます。
# by fachwerkstrasse | 2010-09-26 23:55 | 演奏芸術 雑感

なぜ「木組み街道?」 - (10) - 演奏芸術 雑感-

(途中脱線して、演奏芸術の話に流れます。カテゴリも「演奏芸術 雑感」に移動)
# by fachwerkstrasse | 2010-09-26 23:03 | なぜ木組み街道?

なぜ「木組み街道?」 (9) - 古典への視座 -

現代的意義といっても、それは古典を現代風に解釈することではない。これについてはいずれじっくり論じたいと思うが、自分は例えば昨今のオペラの演出にみられる「古典の現代風解釈」に疑義を呈している。古典に接して理解できないのは、勉強不足の現代の読み手・聴き手の責任であり、それを理由にして作品に手を加えるなど言語道断である。作品を現代に近づけるのではなく、我々の方から古典作品ないし古典が生み出された時代に近づいていかなくてはならない。

そもそも古典を紐解く意義は、今生きている時代、習俗、常識、知的営みとは異なる世界に触れて、現代とは別次元の「精神的広がり」を自分の中に作り出すことではないのか。言葉の壁、時代背景の違いなど、様々なハードルがあるのは確かだが、それを乗り越えて得られるものは、現代のとっつきやすい表面的な文化よりもはるかに大きい。池澤夏樹も古典と取っ組み合う大切さを強調している。

世界文学の名作 脚光 18年ぶりに全集発行など」(2007年 朝日新聞)

「今は口当たりのいい、おなかにもたれない小説を好む読者の層が膨らんでいる。だが、歯ごたえのあるものを頑張って理解した時の達成感は大きな喜びになる。そうした格闘の体験は恋愛より大切なものだ。」

これは文学だけでなく、音楽や美術などすべてに当てはまることだろう。だが実際のところは、現代を無条件に肯定し、古典古代から現代に至る知的退廃をよしとし、挙句の果てには崇高なる古典そのものにまで手をかけようとしているのが現状。この傾向は日本よりむしろドイツの方が強いのではないかと危惧している。9割の人間が古典には目もくれず、残りの1割はまともに取り組んでいるだけマシだともいえるが、それは古典が本来持つ「重み」をきれいに取り払った模造品であることがほとんど。(制作サイドのプロダクションも、大衆の受け止め方も)哀れなるかな、せっかく人類が誇る精神的遺産がありながら、その価値を貶めることが「人類の進歩」だとされている。
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[Semperoper in Dresden 2008 © DFS All Rights Reserved]

今のドイツで憂うべきは、学生や職業訓練中の若者などは(失業者も!)演奏会や歌劇場などで映画よりも安い値段で特等席につけるのに、会場内の年齢層は見渡す限りどうみても高い。日本だともう少し年齢層にバラつきがあるように思うが、この状況はそのまま社会の精神的貧困さを物語っている。(青少年向けの企画などはやっているが、学校単位で無理やり連れてこられた生徒たちでぎっしり、隣の連れと喋り通しでロクに聞いていない。何よりも、演目や演奏形態はそのままなのに、司会者が出てきて上っ面だけの曲目紹介なんかしても、意味がないと思う。)喉から手が出るほど芸術に飢えていながら、財布と相談した末に涙を飲んでいる日本の若者が知ったら、怒り心頭ですよ、これは!

唯一ベルリンくらいだろうか、芸術が身近な存在として親しまれ社会の中に自然と溶け込んでいるのは…。それも伝統に重きを置いたものから最先端の意欲的なプロジェクトまで、実に多様で刺激的。企画の多さではおそらく東京が、幅の広さやバラエティの豊かさ、そして先進性ではベルリンが一歩リード、というところだろうか。
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[Die Berliner Philharmonie, großer Saal 2010 © DFS All Rights Reserved]

(上の写真は今年のラトル指揮ベルリン・フィルによるマタイ受難曲「上演」休憩時。
舞台中央で練習しているのは、客演ガンバ奏者のヒレ・パーレさん)

だからといって、そんな自分の「好み」を広めようとか他人におしつけようとか、なにかの潮流や運動を引き起こそうなんて、そんな気は毛頭ない(し、そんな行動力もカリスマ性もない)。そうではなくて、自分だけのそうした世界や価値基準を、ひとりひとりが自らの中に築き上げることが大事なのだ。文章化するのはそれを昇華させるためである。書くという行為を通じて自らの意識が明確なものとなり、読む行為もより生産的なものとなってゆく。(読む作業は書く作業に支えられている!)

そんな「古いものを探求する」知的営みの象徴として目に留まったのが、この木組み街道だった。そして、まずは駄文を並べ立てて自分のひねくれた視点を洗いざらいさらけ出すのが狙いというわけなのだ。しかし、それは許光俊氏が指摘するように、何かを論じるんだったら初めに自分の主観や寄って立つ位置を明確にしておくべきだからであり、むしろそうした主観交じりの情報の錯綜で、逆に真実を浮かび上がらせるというのは、まさに今のネット社会の特徴ではないか。かつての「客観的作業」の積み重ねによる情報ツールの権威は、その栄光を失いつつある…

(シンボルとしての木組みの家)
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[Bad Camberg, Obertorstraße 2009 © DFS All Rights Reserved]

だがそうは言うものの、ここまではっきりと「自分をさらけ出す」ことには躊躇していた。しかし迷いを拭い去り後押しをしてくれたのは、賛否両論分かれているこの本であった。

「カラヤンがクラシックを殺した」 (光文社新書) 宮下誠 (著)

バーゼル大学で博士号を習得されている美術史家だが、学術論文のお作法や方法論などなんのその、自らが精通している理論や概念を好き勝手に援用しながら、自らの思いのたけを存分にぶつけている。(そもそも作品ならいざ知らず演奏芸術は理論的な批評の対象となりえない。せいぜいのところ、どの版を採用したとか、楽器編成をどうしたとか、現代楽器か古楽器か、現代楽器をノンビブラートでやるか、という次元が精一杯で、ある演奏が良かったか悪かったかなんて、いくら言葉を尽くしたところで所詮は「読書感想文」の域を出ないのである)

だがむしろそれを逆手にとって、この本は、20世紀の演奏芸術が辿ってきた諸問題とジレンマ、そして芸術と社会・文明の関連を克明に浮き彫りにしている。学術研究としては絶対に無理な言説だ。(思えば、自分の出発点も名人芸の魔力に煽られてブラボーを叫ぶ聴衆と独裁政治による集団的熱狂を同一視したテーゼであった、そこからなんと遠回りをしてきたことか…)たとえ非難されて、罵倒され、敵を作ってでも、はっきりと自分の視点を打ち出した上で文化について論じなくてはならない、そのことを認識させるきっかけになった本だった。しかし本の内容より衝撃だったのは、この本が結果的に著者の最後の著書になってしまったということ…。
# by fachwerkstrasse | 2010-09-25 22:47 | なぜ木組み街道?

なぜ「木組み街道?」 (8) - mein Standpunkt 自らの立ち位置 -

さて、のっけから話があらぬ方向に展開して意味不明なブログになってしまったが、できることなら、さっさときれいな木組みの家だけ取り上げて、音楽のこととか好き勝手に書いていけたら、その方がはるかに(読む側にとっても書き手も)楽だったろう。だが自分の性格上それは良心が許さないことだし、ここまでまとめあげてきた理念にも反することだ。

それに、単に穴場スポットを紹介するだけだったり、お気楽な旅行記の類や、日常に思いついたことをただ書きなぐってゆくだけのブログだったら、他の人達がもうさんざんやっている。単なる物見遊山で木組みの街並みを見に行ってきたのではないのだ。
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[Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität Bonn 2005 © DFS All Rights Reserved]

それがどういう意味を担っているのかについては、すでに説明した。木組みの家は自らの学び、そして理想の「象徴」なのである。その上でさらに、批判が起こることも承知で、論争的な発言も含め最初にさらけ出しているのは(これからもさらけ出すつもりだが)著名なこちらの音楽評論家の考えによるところが大きい。

連載 許光俊の言いたい放題 第175回「人生と音楽」

「自分はこういう人間」というのを棚上げして、他人の音楽をどうこう言うのが、何とも狡い気がしてならないのである。(...中略)だが、こうしたことにいっさい関わりなく、まるで拾ってきたきれいな石を褒めるような感じで綴られてしまう評論がほとんどなのだ。しかし本来、美について論じるということは、突き詰めるほどに、「それを美しいと感じる自分」を論じることと切り離せないはずである。なぜなら美は物理的特性などではなく、非常に主観的なものなのだから。

要するに、何かを論じるんだったら、その前に自分の価値観および立ち位置を洗いざらいだしておけよ、ということだと思う。音楽について、歴史について、善悪について、美について語ることは、まさに自分をさらけ出す行為に他ならない。単に演奏会に言ってきた感想を並べ立てるだけだったら、これもその手のブログから新聞の批評欄までゴマンとある。今更そんな単なる個人的な日記や木組みの街並み紹介しますよ、では屋上屋を架すようなものだ。

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[Semperoper in Dresden 2008 © DFS All Rights Reserved]

では、自分がわざわざ自らの考えてきたことや体験を文章化して人様にさらす理由は何なのか?考え抜いた揚句行き着いた答えはこうだ。

「様々な変化の波にさらされる現代において、あえて古いものに固執し、そこに現代的意義を見出して「現代」の常識に批判的に対峙してゆくこと」である。
# by fachwerkstrasse | 2010-09-24 01:23 | なぜ木組み街道?

なぜ「木組み街道?」 (7) - 真実の自己を求めて -

そして、こうした街並みや人々の生活、食べ物などを実際に自分の五感をフル稼働して体験し味わったことで、今ドイツ文学の作品を読むと、まるで違ったもののように思えてくる。バッハが生きていた土地を訪ね歩いた後では、その音楽も自分の中では、今やまったく違う響きとなっている。

(バッハが宮廷楽長として奉職したケーテンの街)
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[Köthen, Magdeburgerstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]

だから、いかに様々な理論が発達し、作者や読者のあり方について、批判的な見解がどれほど上梓されようとも、自分にとって芸術とは、これらの歴史の中で生み出されたものであり、作品が生み出された当時とは価値観も習慣もまるで異なる現代に生きる我々であろうとも、歴史に敬意を表して、できる限りその現場にたって、同じ景色を見て、同じ空気を吸って、様々な音を聴いて、その時代を追想しながら自らの五感と渾然一体となって「感覚」として吸収して自分のものにし、書籍や現代の技術によって得られる情報によって肉付けしながら、知識と感覚を合致させてゆくことで、はじめて理解できるものなのである。それはまさに真実の自己を探求する旅、「内面への道 Weg nach Innen」であった。

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[Morgenrot zwischen Wechmar und Seebergen 2007 © DFS All Rights Reserved]

ドイツに住んで、はや5年。ドイツ語を学び始めて、はや12年。音楽について考え出して、はや10年。まるで空白のようだった10代の時間を取り戻そうとするかのように、なにかに突き動かされるように、自分でもそれがなぜなのか、いまいち把握しきれないまま、ここまで突っ走ってきた。その分失ったものもたくさんあった。

(自分にとって、この「道」の原点ともなった場所)
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[野尻湖 2004 © DFS All Rights Reserved]

でも今、これまで無我夢中でやってきたことが、着実に蓄積されて、新たにその先が見えようとしている。そして改めて原点に立ち返り、さらに豊饒な世界が広がっていると実感できる。なにかについて意見を述べたり論じようとしても、できなかった。今でもそうなのだけど、かつてはあまりにも物を知らなすぎた。それはまさに、霧の中を彷徨うが如くであった。  

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[Universität Erfurt 2006 © DFS All Rights Reserved]        

真夏の太陽が照りつける石畳の道を汗をかきながら歩き、石造りの教会に入って、嘘のような涼しさに身を委ねるあの感覚、あるいは木陰で涼む、また日本人にとっては質素に思える食事の描写が、現代でもなんら変わる事のない、普通の食事であること、そして歴史を重ねた木組みの家や、内部の小さな部屋、きしむ床、外の景色がゆがんで見える窓ガラス、そして優しく体を包むような、田舎でしか食卓に供されることのないあのすっきりとした白ワインの味わい… これらを自分のものとしていない限り、文学作品を、また音楽をも正しく理解することはできない、あえて自分はこう断言したい。そして、それをより確かなものにしていくためにも、これからさらに旅を続けることだろう。

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[Hirschhorn am Neckar, Hauptstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]
# by fachwerkstrasse | 2010-09-23 03:14 | なぜ木組み街道?