まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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ドイツ木組みの家街道 -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-22 -

こちらの大きな4階建ての大きな木組みの「金星亭」は1700年にロッテ通りとの角に建てられた。
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______[Wetzlar Schmiedgasse 8 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

地上階の部分は20世紀に大幅に改築がほどこされている。
2階と3階はそれぞれシンプルな木組み構造で、装飾は2階部分の紋章のみである。
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______[Wetzlar Schmiedgasse 8 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

2階から上の部分は階層ごとに若干せり出していて、枕材には刳形が用いられている。

最上階はスレート葺きで、窓の高さや平面な屋根の形からもわかるとおり、19世紀に増築されたものだ。
by fachwerkstrasse | 2011-01-27 09:33 | ドイツ木組みの家街道

ドイツ木組みの家街道 -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-21 -

では、穀物広場から大聖堂や帝国裁判所のある街の中心部へ向かってみよう。

鍛冶屋横町に並び立つ建物は、ほとんどが17世紀の大火事の後に
再建されたものだが、いくつか立派な木組みの家が目を引く。

例えばここの7番地。4階建て平入りの木組み建築で大火事の直後1688年に建てられた。
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_______[Wetzlar Schmiedgasse 7 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

4本柱の建物で17世紀後半の典型的な密で規則的な木組み構造である。
まず左右両端をみると、斜めの支柱が建物の角にあたる両脇の支柱の4分の3のところで接している。
そして2階の胸壁部分にはルネサンスからバロックにかけてよくみられる紋章が2つとりつけらている。
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_______[Wetzlar Schmiedgasse 7 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

階層ごとに溝目模様の装飾が施された敷桁と枕材で区切られ、そこから各階ごとに若干せり出している。
18世紀に後づけされた花輪模様のついた雨樋の蛇腹には歯状装飾が施されている。
18世紀後半には、さらに平坦な切妻屋根と壮観な切妻蛇腹のついた屋根裏部屋が増築された。また、
写真には映っていないが、一階部分は20世紀に何度か改修されているので、建築当時のままでではない。
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_______[Wetzlar Schmiedgasse 7 2009 © DFS All Rights Reserved]_______
by fachwerkstrasse | 2011-01-21 10:05 | ドイツ木組みの家街道

遍歴の始まり

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自分は別に音楽家であるわけでもないし、音楽学を専攻しているわけでもない。でも自分の生活は音楽を中心にまわっている。文学を専攻していたけれど、テーマ設定はあくまで音楽が中心で、そのためにいろいろと問題も生じていたのだが、いまだに文学作品よりも音楽作品の方がはるかに聴き知っている数は多いし、文学・言語理論と楽理や和声の知識を比べたら、まぁ今でもまだ後者の方がまともに人に説明できると思う。


周りからどれだけ奇異の目で見られようと、自分にとってはこれがごく当たり前のことで「音楽が聴けないのは食べられないよりも苦しい」(老齢で耳が遠くなったヘルムート・シュミット元首相:ピアノもかなりの腕前で、日本で昔YOSHIKIが出していたような、自薦コンピレーション・アルバムまで発売している)「日々の呼吸と同じくらい、ごく自然にあるけど、でもなくてはならない存在(ヘルマン・ヘッセ)」という思いに追随することにしよう。

[Das Beethoven-Denkmal am Beethovenplatz, Wien 2010© DFS All Rights Reserved]_

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しかし、時折自分がどうしてこれほど前に音楽に夢中なのか、不思議に思うことがある。答えが見つかるはずもなかろうが、手掛かりを探すために、これまでの自分の音楽遍歴を振り返ってみることにした。

小3でピアノを始めて、これも実際は嫌がるのを最初は親が
無理に習わせたのだが、今思うと、これがなかったら、今の
自分の人生はないに等しいので、感謝するのみである。


例のごとく音楽室の肖像画やらで一番親しみのあったベートーベンの伝記を読んだりして、いたく感銘を受け、先生にも無理にお願いして、実際の進捗度合いに比して難易度の高いト長調のソナチネやパイジェルロの主題による変奏曲を勉強した。



そして、当時流通し始めていたCDで、運命や第9を聴き、
のめりこんで行ったのだった。

__________________
[Bonn, Bonngasse 2005 © DFS All Rights Reserved]


しかし、よもや自分が20年後に、伝記に載っていたボンの街に住み、写真で観ていたベートーヴェンの生家を訪れ、ライン川を眺め、ケルンで人生初のウィーンフィルを体験することになるとは、夢にも思わなかった。

そして、昨年ようやく念願かないウィーンに赴いて、これもまた伝記で目に穴が開くほど眺めていた市内のベートーヴェン記念像や中央墓地の墓を目の前に拝むことができた。それは、まるで生まれ故郷を訪れたかのような、不思議な郷愁を呼び起こすものであった。
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_______[Der Wiener Zentralfriedhof 2010 © DFS All Rights Reserved]______
by fachwerkstrasse | 2011-01-20 12:42 | 音楽遍歴

ドイツ木組みの家街道 -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-⑳ -

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実は、鍛冶屋横町の1番地はかつて、ゲーテの母方の祖母の一番年下の妹、つまり大叔母にあたる枢密顧問官ランゲ女史(Susanne Maria Cornelia Lange、旧姓Lindheimer)の住まいだった。

こちらの記事でも触れた通り、フランクフルトから単身やってきた司法修習生ゲーテが、最高裁の法曹関係者たちの住まいが並ぶ穀物広場の一角に住むことができたのも、この大叔母の取りなしだった。

当然そこからさらに、最高裁に集う法律家たちとのコネを築くチャンスもあったはずなのだが、ゲーテ本人にはもはやどうでもよくなっていた。

逆にこの大叔母から紹介されたドイツ騎士団の官吏であるBuff家との仲は、どんどん深まってゆく。そしてそれが、後のあの名作への布石となるのだ。


______________[Wetzlar Schmiedgasse 1 2009 © DFS All Rights Reserved]


このように、ゲーテの住居があったコルンマルクトを一周して分かったことは、まず何と言っても、ゲーテが司法修習を行うに当たって、最高裁のあるこの街の一等地に住んでいたということ。家柄も財産やコネといった後ろ盾も教養も兼ね備え、言うことなしのはずだった。

しかし法曹界の実態に失望したゲーテは、仕事を放棄し、周りの社交界も無視、内面の声に従って自然を愛し、素朴な民衆の生活を愛し、そして人を愛した。恵まれた状況と本人の内面で起こった葛藤とその悲劇性のギャップが浮かび上がる。

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________[Wetzlar Kornmarkt 2010 © DFS All Rights Reserved]_________

時代を問わず、常人にはおよそ理解しがたい、はたから見ればひどく滑稽に写るであろう、その極端な情熱と誠実さ。だがこの焼けつくような苦しみに耐えきれなかったゲーテは、文筆という手段で救いの道を見出し、書き手はそれによって現実を生き抜いたが、小説の主人公は自ら命を絶つこととなる。

このように、実際に書き手=小説の主人公がいた空間に思いを巡らせることで、逆にこの小説全体を貫く、平常の人間社会の営みに溶け込むことのできない主人公の異常性が浮かび上がるのである。
by fachwerkstrasse | 2011-01-19 19:38 | ゲーテの足跡を訪ねて

新年のカンタータ ④ BWV 16

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初演は1726年の元旦。1725年の待望節から年明けの一月中旬までの間にゲオルク・クリスティアン・レームスの詩句を元に作曲された一連のカンタータ群のうちの一曲である。


レームスはかつてのシュレジエン、今日ではポーランド領となっているレーグニッツの出身。ダルムシュタットの宮廷司書を務めた後、33歳の若さで同地で生涯を閉じた人で、1711年に件の詩句を出版している。

レームス自ら「神に捧げたもう、年間を通じて日曜や祝日に祈りを捧げるための詩句、神をたたえダルムシュタットの城内教会において早朝と正午に敬虔心を奮い立たせる」ためのものと記している。




[Georg Christian Lehms, aus "Teutschlands Galante Poetinnen
Mit Ihren sinnreichen und netten Proben", Franckfurt am Mayn, Anno 1715]



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まずもってこの通年用の詩句は、当地のカペルマイスター(宮廷楽長)クリストフ・グラウプナーのために書かれたもので、1711年の聖霊降臨祭と1712年の待節前までの間に、まとめて音楽が付されていった。

50曲に上るグラウプナーの自筆譜は今日ダルムシュタットの州立・大学図書館に収蔵されている。

ちなみに、このグラウプナーもバッハと少なからぬゆかりのあった人物である。1722年にライプチヒの市参事会がクーナウの後任のカントールとしてテレマンに声をかけたが断られた。そのテレマンの推薦でこのポストに応募したのがグラウプナーであった。


_____________[C. Graupner, Autograph der Kantate "Wir haben nicht mit Fleisch und Blut zu kämpfen"]


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ところが採用が決まったものの、ダルムシュタット宮廷のエルンスト・ルートヴィヒ方伯がグラウプナーの放出を認めず、ライプチヒ市は「しぶしぶ」バッハと契約することになった。

グラウプナーが採用されていたら、バッハのカンタータや
受難曲は今ある形では存在していなかったかもしれない。

有名な話ではあるが、今日のわれわれの視点からは、
バッハのこの冷遇ぶりをにわかには信じがたい。

しかもグラウプナーはバッハが契約書にサインした後、
バッハの能力に太鼓判を押す推薦書を市参事会宛に
書いているほどだ。



[Landgraf Ernst Ludwig von Hessen-Darmstadt.
 Gemälde aus der Werkstatt von Johann Christian Fiedler (1697-1765)]



早くも1713年にこの詩句集から2編をもとにソロカンタータを作曲していることから、当時ワイマールの宮廷
オルガニストだったバッハはこの詩句が出版されてすぐに入手したと考えられる。時節に合った詩句が手元になくてレームスの詩句集に触手を伸ばしたのか、何か別の理由でこの詩句集に思い当ったのかは知る由もないが、いずれにせよ上述のように1725年から26年にかけて、レームスの詩句集を元に6曲のカンタータが連続して作曲され、さらに同年7月と9月にもさらに2曲作曲された。

レームスは「主なる神よ、汝を我らは讃えん」のカンタータを「元旦の午後の祈り」のためだと記している。
新年とイエスの割礼・命名との関連はここからは見いだせない。むしろ神に対する賛美と神の慈悲に対する感謝に重きが置かれている。


冒頭はまず1529年ルター訳のテ・デウムで始まる。b0206899_8274333.jpg
続くレチタティーヴォがこれを受けて、神の救いや愛
静寂などを歌いあげる。すぐさま神殿が登場し、
情熱的な神への感謝の気持ちが謳われる。
これを受けて合唱付きのバスのアリアが歌われる。
やがて神の加護と平和、さらに国の存続と繁栄をも

祈る内容に移り、アルトのレティタティーヴォとなる。
続くテノールのアリアでは、作詞者オリジナルの
詩句でイエスに対する感謝の気持ちが歌われる。

レームスが作詞したのはここまでで、バッハの
カンタータでは教理問答として、1580年の
パウル・エーバーによる新年のための讃美歌
「神のみ心を讃えさせ給ふ」の最後の部分の
詩句が加わっている。

_____________________________________[Paul Eber im Ausschnitt aus seinem Epitaphs in der Stadtkirche
_________________________________________der Lutherstadt Wittenberg gemalt von Lucas Cranach d. J]



このようないきさつのカンタータ詩句に、バッハはどんな音楽をつけたのだろうか。

四行からなる冒頭のコラールはルター訳のテ・デウムドイツ語訳で、これをモテット風に処理している。
一行ごとに分割されているのは、旋律の教会旋法的な性格を考慮した結果であろう。
厳格で緊密な構成をとっているが、伝統的な交唱(アンティフォニー)を思わせるものとなっている。

歌唱の配役や歌い手の数が変化し、一番目と三番目のメロディラインはそれぞれ四声体で歌われ、
器楽は通奏低音と定旋律を補強するためのホルンのみである。それに対して二行目と四行目は旋律線に沿って弦楽器とオーボエ一本が加わり、これに第一ヴァイオリンと第一オーボエが独立した五番目の声部を奏でる。これにバスのレチタティーヴォとアリアが続く。このバスのアリアは複層的な構造となっていて、
ソロ歌唱と特徴的なトゥッティの部分とが交互に現れる。ホルンの印象的な響きも加わり、合唱と
管弦楽の処理がバスのソロ歌唱の個所では和声的に、合唱の部分は対位法的に処理される。

この壮麗なアリアに続いて、雰囲気が一転して神の加護と平和と祝福された繁栄を祈る厳かなアルトの
レチタティーヴォがくる。テノールのアリアでは声部に沿ってオブリガートのオーボエ・ダ・カッチャが単独で
低めの音で配置されている。1731年と1749年に上演された際にはヴィオラに置き換えられている。

表面的な効果を抑制した背景にはアリアの詩句の性格によるものであろう。と同時に、ヴィオラのいぶし銀のような響きが詩句の中に出てくる「宝物」や「富」を連想させるという演奏効果も考慮されたかもしれない。
実際に初期の作品でもこうした楽器編成が試みられているのだ。
最後はパウル・エーバーの新年用の讃美歌が歌われ、カンタータの幕を閉じる。

レオンハルトの録音が上がっていた。前半後半。ちなみに前半の3曲目、2:52から登場する画像は
1735年、つまりバッハがカントールとして活躍していた頃のライプチヒ・トマス教会とその周辺である。


___パウル・エーバーの家族が祈りをささげている様子。ルター派の礼拝の雰囲気が伝わってくる。_____
_____ルターが95カ条の論台を張りだしたヴィッテンベルクの城内教会の墓碑に描かれているもの_____
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[Paul Eber’s Familie im Ausschnitt aus seinem Epitaph in der Stadtkirche der Lutherstadt Wittenberg gemalt von Lucas Cranach d. J. selbstfotografiert gemeinfrei]
by fachwerkstrasse | 2011-01-07 07:41 | 教会暦 カンタータ

公現祭 クリスマス・オラトリオ第6部

毎年クリスマスシーズンに聴き慣れてきたこの曲も、実は正月気分すら過ぎ去った後のこの時期のためのものだった。現在はドイツでもクリスマスを祝うのは24日と25日だが、本来のキリスト教上の暦は、25日の聖夜からこの日までが降誕節なのである。公現祭(Epiphanias)とは、読んで字のごとく、神が人としてのキリストの姿で現前したことを記念するものであり、当然暦の中でも非常に重要な位置を占めている。この第6部がとりわけ勇壮で華やかな気分に満ちているのも、そのためだろう。

シュライヤーの指揮でどうぞ。

初演は1735年1月6日、午前中にトーマス教会、午後にニコライ教会で上演された。

冒頭のカンタータ詩句「主よ、驕れる敵どもが息巻くとも」は、一方ではこの公現祭の主旨に沿ったものだが、他方ではまたこの曲の成立事情ともかかわってくる。公現祭出本来取り扱われるべき東方の三賢人の物語は、ここでは最後に触れられるのみである。なぜならこれはすでに第5部に出てくるからである。そしてマタイの福音書2章からの引用「ヘロデ王は3賢人をひそかに呼びつけ…云々」がレチタティーヴォで歌われる。カンタータ全体の中では3賢人がヘロデ王の依頼を受けて幼子イエスを見つけ出し、帰りは周り道をして帰還する一連の物語が謳われる。

残りの5つのカンタータと同様に、ここでもアリアや冒頭の合唱曲がパロディである。ただしレチタティーヴォ部分もパロディであるのが、唯一異なる点である。つまり同様に6曲からなる教会カンタータ全体をごっそり転用したというわけだ。このカンタータは現存しておらず、1734年に作曲されたミカエル祭のためのカンタータではないかと推測されている。ここから音楽だけでなく詩句の一部も転用された可能性がある。

クリスマス・オラトリオは世俗カンタータからのパロディ作品なのではあるが、別な見方をすればバッハが書きためた中でも選りすぐりの作品を、さらに6曲のチクルスという統一的なコンセプトのもとに、さらに練りなおした集大成的なものともいえるだろう。実際、絢爛豪華な曲が結集されたことで、クリスマスにふさわしい華やかな雰囲気満載となっている。とりあえず一年、教会カンタータを巡ってみれば、また新たな発見があるかもしれない。
by fachwerkstrasse | 2011-01-06 23:47 | クリスマス

新年のカンタータ ③ BWV 41

1724年初夏から1725年の復活祭にかけては、いわゆる「コラール・カンタータの年」とよばれる期間に相当する。この間に40曲以上のコラール・カンタータが作曲されたが、完全に一纏まりのものとして完結はしていないと考えられている。「イエスよ、今こそ讃えられよ」は1725年の初演ということで、これもこのチクルスの所産。

カンタータ詩句は、新年のものとしてオーソドックスな作りとなっているが、作者は不明。
ここでもある新年用のコラールから引用がなされている。最初と終わりの詩句はそこからそのまま採られ、
間のレチタティーヴォやアリアには元の詩句から自由に創作されている。

まず冒頭と終曲に関しては、ヨハン・ヘルマンの1593年のコラールとみて間違いない。
14行という、いささか珍しい長めの詩形となっている。
終曲のコラールの詩句も同じものから、そのまま採られている。

しかしヘルマンのコラールが、ひとまとまりの詩行であるのに対して、そこからカンタータのために
レチタティーヴォとアリアをそれぞれ2連づつ作成しなくてはならず、長さも一致しないという厄介な問題が
生じたに違いない。しかし作詞者はこの課題をうまくやり過ごし、元のコラールの内容に沿った詩句を
見事に書きあげた。

次に中間部、まずアルトのレチタティーヴォ部分に相当する元のヘルマンのコラールの詩句はわずか2行、
ルカの福音書のイエスの割礼と命名の部分から採られたものである。これを受けてカンタータの詩句は
ヨハネの福音書の冒頭や詩篇の139編などを参考に作られた。

続くテノールのアリアでは、ヘルマンのコラールを元に信仰を維持することの重要さを訴えかけている。
これにバスのレティタティーヴォと合唱が続く。終曲のコラールはヘルマンのコラールの3番目と4番目の
詩句から採られている。

一方でバッハの自筆譜には「新年」ではなく「キリスト割礼蔡のための」と書かれている。
しかもこの自筆譜は、様々な紆余曲折を経ている。長男のウィルヘルム・フリーデマンが相続した後、
17世紀のうちにザクセンの個人蔵となり、1833年に歌手でバッハの収集家であったフランツ・ハウザーに
売却され、1904年にベルリンの国立図書館に寄贈された。

ところが数年後に何者かが、自筆譜の最後の3枚の用紙を抜き取ってしまった。そのうち一枚は第一次大戦後にザールフェルトの郷土博物館に寄贈され、現在も同博物館所蔵となっている。2枚目は紛失したかに思われたが、70年代の終わりに偶然アイゼナハで発見され、ベルリンに返却された。

1913年まで王立図書館が入っていた、ベルリンのベーベル広場(旧オペラ広場)の建物。外観から「洋服ダンス」の愛称で親しまれていた。現在はベルリン・フンボルト大学の方学部が入っており、図書館の方は1914年にウンター・デン・リンデン通りを挟んで斜め向かいにある現在の建物に移転した。
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_________[Berlin Bebelplatz 2006 © DFS All Rights Reserved]_________


こうした盗難劇は、かつては珍しくなかったようだが、長らく誰にも気づかれずにいたのは、バッハの自筆譜が大掛かりなものとなっていたこともあろう。特に冒頭の曲は213小説にものぼる後にも先にもない規模の長さで、しかも祝典的な性格を出すのに不可欠なトランペットとティンパニが加わったことで、書き込みにも膨大なスペースを要したのだ。他のコラールカンタータと同様、コラールの旋律が一行ごとに息長く歌われ、この曲の場合にはソプラノがそのほとんどを担っているが、他の声部がこの主要声部に沿って対位法的に配置されてういる。そして全体に渡ってまとまったモティーフに基づいた器楽合奏がからんでくる。

この器楽合奏はトランペットとティンパニで華やかな演奏効果を狙っているのだが、まずは合唱の開始とともに木管と弦楽器が先導し、コラールの各行が謳われるごとに、その合間を縫うように奏でられる。前半では、同じ音型でまず1行目から4行目、次に5行目から8行目のコラールが歌われる。

後半に入ると、まず「私達は静かに年を越した」の個所では、静寂の雰囲気に合わせて、拍子もテンポもガラッと変わる。こういうドラマティックな表現では、バッハ時代を先取りしていると言ってもいいだろう。すぐに活気を取り戻し、続く残りの4行ではモテット風に処理されている。ここでは器楽合奏は合唱を補強する役割を担っている。カンタータ全体をシンメトリックにまとめるためにバッハは終曲にも同様の配置を採用し、同じコラール旋律を用いている。

ブリリアントのバッハ全集にも収録されている、ロイスィンク+オランダバッハコレギウムと少年合唱団による、冒頭曲の音源はこちら

中間部では各声部のソロが交代で登場することになるわけが、最初のソプラノのアリアでは神に対する純朴な祈りの気持ちが優美な舞踏風の音楽で表現され、パストラーレ風の器楽伴奏彩りを添えている。声楽とオーボエ三本に通奏低音が密に折り重なっていて、実に心地よい響きだ。

次に短いアルトのレチタティーヴォに続いてテノールのアリアに移る。ここでは技巧的なヴィオロンチェロ・ピッコロによるソロが際立つ。陰影の付いた音色が、縦横無尽な音型で、敬虔な内容の詩句の歌唱にからみついている。アーノンクールの録音がこちらにある。

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ちなみに、ヴィオロンチェロ・ピッコロとは、バロック音楽の文献資料でたびたび言及されている楽器だが、一時は完全に忘れ去られており、現在再び注目されて復興や録音が進められている。数年前には、寺神戸亮によるバッハの無伴奏チェロ組曲の録音が話題となった。(←試聴つき:実際こうして聴くと、従来のチェロの演奏のように、無理して汗水たらしながらガーガー引き倒している感じがしない、とても無理のない響き)やはり、バロック音楽はまだまだ楽器や演奏形態そのものに研究の余地があるということだ。たかだが150年ほどの「伝統」に、聴き手も弾き手も安穏としていてはいけない。



続くバスのレチタティーヴォでは、途中に祈祷文の1節が織り込まれている。終曲のコラールは冒頭とほぼ同じ流れになっている。すなわち、コラールの各行ごとにまず金管楽器とティンパニによって、カンタータ冒頭のテーマに基づくファンファーレが入る。最後の4行については、まず最初の2行のみ一時的に三拍子になり、冒頭曲と同様に最後の2行が繰り返され、最後にトランペットとティンパニによるファンファーレが応答して曲を締めくくる。晴れやかな信念の幕開けにふさわしい、素晴らしい曲である。


[Un violoncello piccolo a cinque corde © GNU Free Documentation License]______
by fachwerkstrasse | 2011-01-06 09:13 | 教会暦 カンタータ

新年のカンタータ ② BWV 190

「主に新たな歌を歌わん」には、同名のモテットもある。
バッハがライプチヒで新年のミサのために最初に手掛けた作品である。
クリスマス・オラトリオの第4曲よりも、新年を祝うにふさわしい内容と華やかな音楽である。

初演は1724年元旦。教会暦ではイエスの割礼と命名を祝うためのものである。1730年6月25日には、アウグスブルク信仰告白の起草200周年を記念する特別ミサにおいて再演された。3日間に渡る盛大なものであったらしい。この改訂版に関しては、詩句のみが現存している。

そこからわかるのは、もともとの新年用の部分からはアリアはそのまま転用され、詩句の身が書き換えられたということである。冒頭の合唱曲と続くレチタティーヴォ付のコラールも祝典用に書き換えられた。残りのレティタティーヴォ2曲と終曲も入れ替えられている。この祝典用の詩句を担当したのは、バッハのカンタータ創作に置いてその存在を抜きにしては考えられないピカンダーである。ピカンダーが当初の新年用のカンタータ詩句も担当したのかはわかっていない。


下の写真は、アウグスブルク信仰告白の起草200周年記念の銀メダル。古銭販売サイトから採りました。表面ではザクセン公ヨハン・フリードリヒとルターが信仰告白書を手に取っている。
裏面は契約の聖櫃を掲げて行進している様子が描かれている。
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Silbermedaille 1730. (v. Vestner) auf die 200-Jahrfeier der Übergabe der Augsburger Konfession


カンタータ詩句は新年のミサのための形式則ったオーソドックスなもので、詩篇から題材をとっている。冒頭の合唱曲では『詩編』第149編1節および『詩編』第150編4節からの詩句を採用している。続く『詩編』第150編6節からの部分は、ルターのドイツ語訳によるTe Deum(テ・デウム:ラテン語によるカトリックの聖歌)に織り込まれている。

続くコラール部分も同様のドイツ語訳テ・デウムで神をたたえ感謝を捧げる詩句歌われ、その合間にレチタティーヴォで新たな年の幸福を願い前年の無病息災を感謝する内容が謳われる。次のあるとのアリアでも、神への感謝が続くが、ここの詩句があまりこなれていないことから、バッハのケーテン時代の作品からの転用ではないかとも言われている。つまり、新天地での初となる新年のカンタータを作るに当たり、当初はカンタータ全曲を持ち曲の中から転用しようとしたが、途中で方針を変えて新たに作曲をしたとも考えられるのである。

中間部、続くバスのレチタティーヴォからは、では詩句の内容が今度はイエスに向けられる。最後のテノールのレチタティーヴォでは、選帝侯やライプチヒ市参事会、教会や学校、そしてライプチヒ市民などの関係当局すべてに対する祝福を願う内容になっている。終曲のコラールは、ヨハンネス・ヘルマンの讃美歌「イエスよ、今こそたたえられよ」からの第二節が「今年は成就させ給え」の一節を皮切りに引用されている。


ところが至極残念なことに、バッハがこの詩句につけた音楽は完全には残されていないのである。冒頭の合唱と続くコラールとレチタティーヴォの2曲が欠けているのである。1730年の再演に向けた曲の再利用と改訂の際に焼失したとする説もあるが決定的ではない。

特に冒頭曲はほぼ完全に失われてしまっている。しかし、新年を祝うという目的や終曲の華やかな編成(こちらは完全な形で残っている)を考えるに、冒頭の曲も同様に祝典的な華やかな雰囲気であったろうと考えるのが妥当である。

つまり、四声体の合唱とトランペット、ティンパニに管弦楽が加わったフルオーケストラ編成ということになる。このうち残っているのは合唱部分とヴァイオリンパートのみ。しかしこの断片的な資料からも十分にこの冒頭曲の構成を推測することが可能である。すなわち、詩篇からの詩句の部分では単純な和声による朗唱から各声部の交代を伴うフーガに至る多彩なオーケストレーションが施されている。逆に合間に挿入されるテ・デウムの詩句の部分はルター派の伝統に沿ってユニゾンで歌われる。

このような事情から、この冒頭曲を今日再現するためには、残るトランペット、ティンパニ、木管楽器、ヴィオラ、通奏低音の各パートを補足する必要がある。しかしバッハが実際にどこにどのように音符を配置したのか、今日では知る由もない。

逆に2曲目の復元はそれほど問題ではない。ドイツ語訳のテ・デウムを通常の四声体で処理し、3つのレチタティーヴォ部分と組み合わせればよいのである。復元の必要がある通奏低音の基音と和声体もごくわずかである。

続くアルトのアリアはポロネーズ風の朗らかな舞踊曲で、器楽部分が主導し、リズムの刻みと曲構成もはっきりしている。しかし二重唱の方ではあまり舞踊の要素は見られない。テノールとバスの歌唱に加えてオーボエダモーレやヴァイオリンによるオブリガート、さらに通奏低音も加わる。イエスに対する信仰告白が、拍子や音程が自在に変化しながら各声部の歌唱が様々に繋ぎ合わされたり重複することで、ことさら強調される。

終曲のコラールは祝典的な要素が強く、16世紀以来の伝統に沿ってトランペットとティンパニのファンファーレが華を添えている。


さて、こうなるとこの曲の演奏に際しては、音符の解釈だけでなく、広範な音楽の知識とセンスが問われる「復元」と言う要素をも絡んでくるので、なかなかスリリングだ。ネット上には二つの音源があったので、あげておくこう。

ひとつは、バッハ・コレギウムジャパンのもの。例えは悪いが、これを聴くと、まず曲そのものに関しても、やはり偽作の疑いが濃厚な前回のBWV143とは曲のクオリティが雲泥の差であるし、演奏の方もこれが復元だとは信じがたいほど、バッハの音楽だと素直に納得できるものだと思う。リズム感や楽器の響きも素晴らしい。

もうひとつはトン・コープマンによる復元。鈴木雅明のものと比べると、祝典的な雰囲気を強調するあまり、
やや恣意的なオーケストレーションになってしまったように感じる。まぁコープマンの性格からすると、
わからなくもないのだが。。。 こちらは3曲目のアルトのアリアまでがアップされています。
by fachwerkstrasse | 2011-01-05 00:01 | 教会暦 カンタータ

新年のカンタータ ① BWV 143

カンタータ詩句や作曲様式から察するに、若いころの作品だと推察されるが、現在伝わっている自筆譜が18世紀半ばのものであることから、正確に作曲年代を特定するには至っていない。

詩句の成立は1700年より以前と推測される。詩篇146節の神に対する永遠の中世を讃えるくだりが軸となっている。これは分割されて、まず最初にテノールのレチタティーヴォ、次にバスのレチタティーヴォで歌われる。加えて詩句の源となっているのが、1601年ヤーコブ・エーベルト作の「汝平和の君主たる主イエスキリストよ」で、1682年にゴットフリート・ヴォペーリウスが出版した『新ライプツィヒ讃美歌集 Neu Leipziger Gesangbuch』に収録されている「戦いの時に置いて我らが主キリストに慈悲と救いを乞う美しき歌」である。
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________Leipziger Gesangbuch von Vopelius, 1682(c) Bachhaus Eisenach________

最初の詩句では生と死において救いの手を差し伸べるキリストを讃える内容になっているが、終曲の合唱曲ではこの先の加護と救いを乞う内容になっている。テノールのアリアでは、かなり具体的で真に迫った描写がある。17世後半、ヨーロッパはオスマン帝国の侵攻にさらされたが、ここで歌われているのが具体的にこの時代のことを指しているのかはわからない。

実は18世紀半ばにこの詩句は改訂を経ており、また19世紀のバッハ研究においては、例えばクリスマスオラトリオの第4曲が同じく新年のためのものであったことも知られていなかったなど、様々な事情が重なり、このカンタータの解釈に関しても様々な誤解が生じていた。現時点でわかっている情報や資料を突き合わせても、まだ断片的にしかこの曲の成立事情は浮かび上がってこない。

また楽曲も、当時の様式の域を出ない旋律、単調なリズムや和声の展開がみられ、リズム感の本来重視するはずの古楽器による解釈を聴いても、どうももたれた感じになってしまう。確かにこれを(たとえ若書きだったとしても)バッハの作品と呼ぶのには、違和感を感じてしまう。カンタータ全体を見渡しても、まとまりにかけている印象。その分かえって、テノールのアリア「幾千もの不幸と恐怖」だけが際立ってしまう。ただし、これは後から挿入された可能性もぬぐい去れない。以上のことから、資料面からも音楽面からも、偽作の疑いが濃い作品なのである。

偽作と言えば、バッハの代表作とも言える「あの」オルガン曲にも、依然偽作の疑いがかかっているが、あれは確かに後年のバッハの音楽を知る耳には雑な印象を受けるが、それを補って余りあるものがあると思うので(確かに技巧に走ってて、表面的な演奏効果を狙っているきらいがあるが、それも北ドイツでの体験の興奮冷めやらぬ若気の至りではないか、という音楽家諸氏のフォローも、どこか納得がいくし、微笑ましい) それと比べると、こっちのカンタータは、あまりにもこなれていなくて、自分としてはやはり偽作説に傾いてしまう。。。

そんなわけで、いまいち気分が盛り上がらないが、一応音声資料をあげておこう。
ただし、これもレオンハルトとなっているが、コメント欄に「アーノンクールじゃない?」
というツッコミが入っている。音源まで偽作の疑い濃厚だ・・・
by fachwerkstrasse | 2011-01-04 00:01 | 教会暦 カンタータ

ツール・ド・ヨーロッパ ④

(前回の続き) ドイツといえども、なんでもかんでも素晴らしいわけではない。
一度なんて、バッハのヨハネ受難曲を歌っているプロの合唱団の、1パート全員が音を外していた
こともあった。さすがに合唱の音程が狂うというのは、後にも先にもこれ以外聴いたことがない。

また、たとえ趣味であったも、日本人はシャイなので技術的に完璧に仕上がっていない限り、
絶対に人前で弾こうとはしないがこっちの人は「自分だったら、とても恥ずかしくて人には
聴かせられない」ような仕上がり具合でも、実に意気揚々とお披露目している。

もちろんそこには、技術や正確さを超えて聴いている人に訴えかけるものがあるか、ということと、伝わる
ものは何もないが、とりあえず技術的な当たり外れは少ない、平均的な母集団というジレンマが存在する。

それは、厳密な規格化と管理の下、故障や欠陥がよその国に比べてはるかに少ない、
世界に誇る高性能の「メイド・イン・ジャパン」ブランドにも通じるものがあるように思う。

機械の場合は、たとえ画期的な新製品を開発しても、品質にばらつきがあって、しょっちゅう壊れてしまう
ようでは困るのである。だが、音楽の場合は、たとえミスタッチなどのキズものであっても、独創的な演奏
なら人は耳を傾けるだろう。

それを証拠に、フルトベングラーやコルトーの録音は、いささかもその価値を減じていないのだから。

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_________[Berlin Philharmonie 2010 © DFS All Rights Reserved]________


閑話休題。

それにしても、このワセオケの生演奏、おそるべき名演だ。

(どなたかの録画がアップされてました)

ベルリンの風
管弦楽のためのラプソディ 外山雄三

学生オケの場合は一年近くにわたって、同じ曲を何度も何度も辛抱強く練習して、
本番でベストになるようにもっていくわけだが、それにしても、ここまで・・・
ため息の出るような美しく艶やかな音色と、実に見事なアンサンブル・・・

見せてもらったDVD映像は、昨年からベルリンフィルが開始した「デジタル・コンサート・ホール」によって、
最高の音質と画質で完璧に録画されたものだ。(現在も会員制有料アーカイブで観ることができるそうだ)
そのため、この日が最高の演奏となるように、ツアーの日程も組んだとか。ツアーの最初は到着後の疲れ、過度の緊張、不慣れな外国での移動といった要因が重なって、どうしても演奏が堅くなってしまうものらしい。
逆にツアーも終盤にさしかかると、そういつまでも緊張感が続くわけでもない。
確かにツアー日程を見ると、ベルリンがちょうど真ん中に来るように組まれている。

しかも、これは彼自身が語ってくれたことだが「最終公演の時は、もうこれで最後。もう後がない」という思いが団員の間にあったという。「明日がない」と思うと、人間がんばって素晴らしい演奏になるものなんですよ、
というのがとても印象的な言葉だった。

そして僕の脳裏によぎったのは、丸山正男がフルトヴェングラーを評してつぶやいた言葉だった。
by fachwerkstrasse | 2011-01-03 23:23 | ツール・ド・ヨーロッパ