まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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降誕祭第3日 クリスマス・オラトリオ第三部

初演は1734年12月27日ニコライ教会、トーマス教会では再演されていない。この第三部のカンタータの成立過程もも、他の5曲と同様に一筋縄ではいかない。しかし、それがまさにバッハの芸術の豊かさを辿る道筋でもあるのだ。

シュライヤーの指揮。しかし、中間部がカットされている。
聖書からの引用「そして彼らは急いでゆき」から、アルトのアリアとレチタティーヴォ、コラール、
そして聖書からの引用「そして羊飼いたちは戻り」までをごっそりすっ飛ばしている。なぜ??

本来なら降誕祭2日目用であるはずのルカの福音書2章からの引用が3つの部分に分散して用いられ、それぞれにコラール詩句が対応している。物語の筋道を立てたり説明を加えたりする格好で、冒頭の詩句にそれぞれ一組のレチタティーヴォとアリアがあてがわれている。

今回も新たに作曲されたのは福音史家の詩句とレチタティーヴォとコラール詩句。合唱曲は1733年に作曲された、ザクセン選帝侯妃誕生日のための世俗カンタータからの転用である。しかしここでは、クリスマス用に新たに採用された詩句が、冒頭を飾るのにふさわしい内容となっているのに対して、音楽の方はむしろ終曲の方にふさわしい性格となっている。

しかしバッハとしては、おそらくここまでのカンタータ3曲の流れと調性の配置を考えて、この合唱曲を最後に繰り返したのだと考えられる。中間部のバスとソプラノの二重唱のアリアは、1733年のヘラクレス・カンタータからの転用である。原曲はヘ長調で、ヘラクレスがあると、(アレゴリーとしての)忍耐がテノールで、オブリガートのヴァイオリン2つが伴奏している。これがイ長調になり、ソプラノとバスの歌唱となり、オーボエ・ダモーレ2本の伴奏となっている。

次のアルトによるアリアも、おそらくパロディであると考えられている。
最後のコラール詩句は、クリストフ・ルンゲの讃美歌「恐れと苦しみを」から採られたもの。
最後に冒頭の合唱曲が繰り返されて終わる。
by fachwerkstrasse | 2010-12-27 23:58 | クリスマス

降誕祭第2日 クリスマス・オラトリオ第二部

こちらの初演は1734年12月26日の早朝トーマス教会にて。午後にニコライ教会でも再演された。
元となったエピソードは、ルカの福音書の第二章。
羊飼いたちがベツレヘムの飼い葉おけの下にやってきたくだりである。
本来降誕祭第1日用であったテキストが割り振られているのは、前回述べた通り。

今回もまずはシュライヤーの指揮でどうぞ。

福音史家のテクストが4つの部分に分かれ様々な長さで朗誦され、それにコラールが応唱ないし新たに作詞されたテクストに基づくレチタティーヴォかアリアで内容が補足される。天使が登場する箇所は、ヨハン・リスト作の讃美歌「弱き精神よ、奮い立て」の9番で「出でよ、美しき朝焼けの光よ」の力強い歌いだし。かいばおけを指す下りは、パウル・ゲルハルトの讃美歌「見よ、見よ、何たる奇跡か」の8番で「見るがよい、そこの暗い厩におられる」の歌い出しだ。カンタータの最後を締めくくるコラールも、同じくゲルハルト作の
「汝に歌わん、イマヌエルよ」の2番である。

アリア2つを除いて、福音史家のレチタティーヴォに次いで、ソプラノに移行された受胎告知とそれに続く緻密な天使の合唱、3つのバスによるレチタティーヴォ、コラールとなど、声楽部分は新たに作曲されたものだ。

2つのアリアは世俗カンタータからの転用だ。フルートのオブリガート付のテノールのアリアは1733年の女王カンタータからで、原曲では、このメヌエットのような舞曲に近い楽章はアルトとオーボエ・ダモーレによる編成で、芸術の女神パラスアテーネが歌われている。同様に「眠れ、わが愛しき子よ」のアリアも、1733年のヘラクレス・カンタータからのもので、原曲ではソプラノで弦楽器のみの編成となっている。

また、この第二部のカンタータでとっぴつすべきは、声楽のない冒頭のト長調のシンフォニアだろう。羊飼いの集う夜の情景と天使のお告げを予感させる、内省的な美しい曲だ。ほとんど写実的といってもいいような、バイオリンとフルートによる天使の安らぎに満ちた音楽は、完全性を象徴する8分の12拍子で、これがまず羊飼いのショームhttp://de.wikipedia.org/wiki/Schalmeiのリズミカルな動きと交代する。これらが光と影の交代が進みながらかみ合ってゆき、合奏部分が最終的には見事な8声部に統合してゆく。前例のない見事な音楽だ。

このシンフォニアの最も秀逸な演奏は、実はルネ・ヤーコブスのもの。
僕はこれを聞いて、初めてこれが「夜の音楽、幼子を優しく見守る、他の5曲の祝祭的な
雰囲気とは一線を画した特別な曲なのだということを、初めて認識した。
by fachwerkstrasse | 2010-12-26 15:01 | クリスマス

降誕祭第1日 クリスマス・オラトリオ第一部

降誕祭(所謂クリスマス)は25日から3日間続く。従って現在でもメインのお祝いは25日だ。

そして、この降誕祭のために作曲された教会カンタータは、25日が4曲、26日が3曲、27日が2曲だ。3日連続で、これら9曲をやっつけていくことはかなり厳しいので、とりあえずクリスマス・オラトリオでお茶を濁すことにし、公現祭までの間の残りの日を使って、なんとか消化するようにしたい。

往年の名テノール、ペーター・シュライヤーの指揮する2005年の映像があった。いずれ詳しくここで書こうと思っているが、僕は指揮者としてのシュライヤーのバッハ解釈に非常に共感を覚えている。一つには、日進月歩のバッハ解釈をきちんとおさえていること、そして(にも拘らず?)彼の「歌心」が声楽パートだけでなく、器楽合奏全体にも生き生きと息づいているからである。

しかも、指揮もしながら福音史家も務めるという離れ業… ベテランだからできるんだろうな、きっと。
しかし、確かこの年に「歌手稼業引退ツアー」を行っているわけで、さすがに声がちょっと厳しいですね。。。
実際に、しかも教会で聴いたらそれほど気にはならないのでしょうが。
今も指揮と歌を兼ねてやっているのかしら?

86年から87年にかけての録音も大変素晴らしいが、この映像では彼の解釈がさらに進化していることをうかがわせる。初めて聴く人にも安心してお勧めできる演奏だと思う。

さて、25日のための第一部は1734年の12月25日の聖夜に初演された。場所はライプチヒのニコライ教会

それまでの個々のカンタータではなく、教会暦の幕開けとなる、3日間の降誕祭をひとくくりにし、さらに新年から公現祭までの合計6日間までをもセットにしようとする壮大な試みの、これがその始まりである。

このような連作カンタータの例としては、バッハ自身の所謂「コラール・カンタータの年」の他にも、リューベックの「音楽の夕べ」や、一連の受難曲としてのカンタータやオラトリオが17世紀の終わりから特にゴータ城でシリーズとして上演された記録が残っていることなどが挙げられる。

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__________[Marburg Markt 2007 © DFS All Rights Reserved]________


バッハが、このクリスマス・オラトリオを当初から連作として構想を練っていたのかについては分かっていない。自筆譜で「第何部」という書き込みが見られるのは第三部からなのである。さしあたり、この点について作曲者自身が保留にしていた理由は1734年の初版を見ると分かる。その表紙には、はっきりと「聖夜に渡って、ライプチヒのニコライ・トーマス両教会において演奏されたオラトリウム」と記されているのである。

しかし個々のカンタータの題目を見てみると、シリーズとして意識して上演されていたのかは疑わしくなる。というのも、当時のライプチヒでの習慣として、教会音楽の上演はニコライ・トーマス両教会を行き来して行われていたことから、ニコライ教会では一部、三部、五部を午前のミサで上演し、残りは降誕祭第2日、新年、公現祭の1月6日の夕方のミサで上演、逆にトーマス教会では一部、二部、四部、六部のみが俎上に上った。

こうした事情を考えると、キリストの生誕から東方三賢人までの物語を連作カンタータとして描くというコンセプトを抱いてはいたものの、バッハはそれが実際に一度に上演可能なものだとは考えていなかったことになる。そのため、6部の連作カンタータの完成までには、構想を温めて時間をかけたと考えるのが妥当なところだが、具体的に個々のカンタータを作るにあたって、どこまで全体を見据えていたのかも、今となってはわからない。

前述の通り、上演に際してはニコライ教会の方が優先されていたに加え、福音の物語がどのように扱われていたのかについても、いくつかの疑問点が残る。本来なら降誕祭第1日のためのテクストをバッハは第一部と第二部に振り分け、第2日目のためのテクストを第三部に配置しているからである。同様に5部と6部に関しても、本来入るはずの、ヘロデ王による虐殺を逃れるためエジプトに移った件がごっそり抜けている。また1734年の暮は、クリスマスの後ではなく、新年と公現祭の間に日曜日があったという事情もあったことにも触れておこう。

このクリスマス・オラトリオも、それ以前の世俗カンタータの音楽を再利用し、詩句をクリスマス用に改めて作られている。いわゆるパロディ手法と呼ばれるやり方である。要するに、音楽を書く時点では「イエス様のご誕生をお祝いして」というつもりでは書いていなかったことになる。それどころか「そういえば、前に祝典的な華やかな曲を書いたけど、あれクリスマスにも持って来いだよなぁ」というわけで、これは真面目な信者の方々には、にわかには受け入れがたい事実だったらしい。

どうにかこれを、バッハのあつい信仰心のなせる技という結論で落ち着かせるべく、19世紀末にはいろいろな解釈が試みられたらしい。曰く「世俗音楽といえども、バッハの音楽はおよそ世俗的とは言い難いものであった(=故に、教会音楽への転用が可能であった)」 などなど。シュヴァイツァーも「詩句だけ無理やり入れ替えたことで、音楽と言葉がちぐはぐになっている」と断じている始末。

しかし実際には、台本作者と緊密に協力しながら、実に念入りに改作を行っていたことが、後の研究で判明している。つまりあくまでバッハの「音楽」が偉大なのであり、それゆえにどんなテキストでも見事に当てはまってしまうのである。1969年になってルートヴィヒ・フィンシャーはようやっと「バッハの音楽作品の偉大さはパロディ改作ができることを前提としているところにある」と述べている。このあたりから、ようやく「敬虔なプロテスタント信仰=バッハの音楽の偉大さ」という単純な呪縛から、バッハ解釈が解き放たれてきたといえるだろう。

第一部冒頭の、とても華やかな、これ以上にクリスマスの華やかな雰囲気に似つかわしい音楽があるだろうかと思わせる合唱曲は、カンタータ『太鼓よ轟け、ラッパよ響け』BWV214のパロディである。

その名の通り、ティンパニのソロの導入と管楽器の応答に続いて、トランペットが高らかにクリスマスの到来を祝うファンファーレを奏でる。中間部のシオンのアリアは『岐路に立つヘラクレス』BWV213の改作。

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_______[Marburg Elisabethkirche 2008 © DFS All Rights Reserved]______
by fachwerkstrasse | 2010-12-25 23:57 | クリスマス

待降節 第4主日のためのカンタータ BWV132

間にあわなかったので、これから数日かけて加筆訂正していきます(汗)

バッハ唯一の第4アドヴェントのためのカンタータは、1715年ワイマール期の作品。
ワイマール城の教会で上演された。

1714年にワイマール公国宮廷楽団の楽長に就任して以来、毎月カンタータを作曲することが
任務となっていた。しかしこれも1715年の夏に、ヨハン・エルンスト皇太子が19歳の若さで逝去
したことで、一旦中断する事となる。公は音楽をたしなみバッハとも親しくしていた。ワイマール公国は
それから3ヶ月間喪に服すこととなったのである。11月初めになって、ようやく教会での音楽が再会の
運びとなった。服喪期間はこの後まだ数カ月続くこととなるがミサでの音楽は再開されることとなった。

そして服喪明けの2番目の仕事として、この第4アドヴェントのためのカンタータが作曲された。

詩句はザロモン・フランクのもの。ヨハネの福音書の第一章からとられ、洗礼者ヨハネと
ユダヤ人達との問答ならびにキリストについての証言がテーマとなっている。

最初はソプラノのアリアから始まる。イザヤ書40章3節からの一節がパラフレーズ化されている。
すなわち新約の福音と旧約の預言を織り交ぜているわけだ。
2番目のアリアでは、洗礼者ヨハネに対する「あなたは誰だ?」の問いが歌われる。
続くレチタティーヴォでは信徒による懺悔の告白が歌われる。続くアルトのアリアでは、
罪を背負って犠牲となったイエスの死が思い起こされ、ヨハネの黙示録にもある
イエスの衣に関する問答も織り込まれている。

最後のコラールではエリザベト・クロイツィガーの「ただ神の子である主キリスト」からの一節が採用されている。
by fachwerkstrasse | 2010-12-24 23:54 | 教会暦 カンタータ

ドイツ文学初のクリスマスツリー

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アドヴェントに入って以降、ヴェッツラーの街からは
しばらく離れてしまっているが、クリスマスツリーが
初めてドイツ文学の中で言及されるのが、
実は、この「若きウェルテルの悩み」なのである。

ヴェッツラー(とは一言も書かれていないが)に
到着してから一年半後の年の暮れ。
家族ぐるみで親しく付き合っていたアルベルトと
ロッテ夫妻。いったんは街を離れた後も、
ウェルテルの思いは断ち切れず、この頃になると
もはや人格にも支障をきたし始めてくる。

そして、物語の冒頭、春の自然を満喫しながら
すでにこの時に口にしていた「肉体という牢獄」からの
解放を実現する決意を固めるのだ。



[Michelstadt Marktplatz 2010 © DFS All Rights Reserved]_______________


12月20日がこの年の第4アドヴェントということになっているが、この日付の手紙が引用される
あたりから、物語の緊張度は一気に高まる。その日の夕方、ウェルテルは再びロッテを訪れる。
ロッテは、子供たち(弟と妹達)へのプレゼントを整理しているところだった。

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現在でも、クリスマスには老若男女問わず、各人が一人一人のために贈り物をする。遠く離れていても、24日の夜には家族や親せきで集まるものなので、そのためにプレゼントを事前に用意しておかなくてはならない。相手が何をもらったら喜ぶだろうとか、かなり入念に考えて、しかも秘密裏に準備して持参しなくてはならないので、なかなか大変だ。どんなに不況でもクリスマス商戦だけは衰えることはない。持参したプレゼントは、あらかじめクリスマスツリーの下に集められる。きれいにパッキングされたプレゼントと、飾り付けられたツリーは、なかなか壮観だ。そして、夜にプレゼント交換のような形で、一人ひとりが一人ひとりに手渡す。とても心温まる瞬間だ。


_[Andersens Märchen, 1872, Ludwig Richter und Fliegende Blätter, Nr.810 & Nr.1120]


さて、冒頭の悲劇に戻ろう。すでに収拾のつかなくなった混乱状態のウェルテルから距離を取るべく、
ロッテは必死にふるまっているのだがウェルテルの溢れ出る感情は止まらない。

子供たちはさぞかし喜ぶだろうね、とか、自分が子供の時には、ドアを開けると目の前にろうそくやお菓子や
リンゴできれいに飾られたツリーが現れて、それはもう天にも昇るような気持ちだった、などとまくしたてる。
笑顔の下に困惑を隠しながら「もうちょっと空気を読んで下さいな」と、ロッテはぴしゃりとはねつける。

そして、木曜日のクリスマス・イブまでの間は、もう会うべきではない、と一時的な出入り禁止を言い渡す。
しかしウェルテルはこの言葉に過敏に反応し、もうあなたには会わないと、すなわち死ぬつもりであることを
あからさまにほのめかす。ついにウェルテルは絶望のどん底に陥り、蟄居した後、泣き腫らして、
翌朝(21日に)、最後の手紙をしたためる。


一方でロッテも、ウェルテルを冷たく突き放した後で、自分がどんな心境に陥っているかを自覚し、戸惑う。
しかし晩にウェルテルが約束を破って、旦那の留守に訪ねてくると、またもや激しく動揺する。
そして、ウェルテルは自ら訳したオシアンの詩を朗読する。感極まった二人は、接吻をかわし、
これが最後とロッテは最後通牒をつきける。部屋に引きこもったロッテに別れを告げて、
ウェルテルはみぞれの降る冬の夜、街の外を狂ったように駆け巡る。

翌朝22日の早朝、ウェルテルが情熱的な、ほとんど狂気の沙汰とでも言うべき、ロッテ宛の別れの手紙を
したためているのを下僕が目撃している。十一時頃、ウェルテルはアルベルトにピストルを貸してもらえるよう
頼む紙切れを使いによこす。はたして、受け取ったお目当てのものがロッテが手渡したピストルだと聞いて
ウェルテルは狂喜する。その日の夜、ウェルテルはさらに身辺整理を行って、ヴィルヘルムとアルベルト
すなわち男連中宛に別れの手紙をさらにしたためる。ここで完全に決心が着いたというべきか。

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______[aus: Dieter Borchmeyer: »DuMont Schnellkurs Goethe« 2005]______


そして22日の夜、ウェルテルはこめかみをピストルで撃ち抜く。
翌朝23日、下僕が、瀕死のウェルテルを発見。正午に息を引き取る。
夜の11時に埋葬される。アルベルトとロッテは、精神的に危機的な状況だ。

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______[Goethes Motto-Verse zur zweiten Auflage des Werther 1775]______

物語はここで終わるが、翌24日はクリスマスイブ。この日までは来てはならぬと言われていた日、
一家で子供たちとともに、幸福な日を過ごすはずだった日。それが、なんたる聖夜となったことか!

それに、最後に異様に印象的に残る「聖職者は同行しなかった」との、締めくくりの一節。
これはゲーテの汎神論ならびに教会という組織に対する反感を知らなければ、ただ葬列の様子を淡々と
描写しているに過ぎないように思える。しかしこの一節には宗教に頼らず、慣習化、形骸化したキリスト教の
手は借りずに、魂を肉体から解放し、真の自由を得たのだとする、ゲーテの熱い思いが込められている。

これを考えると、クリスマスの季節とクリスマス・ツリーという幸福の象徴と、自殺という悲劇的なモチーフの
対比が、実に効果的に行われていることがわかる。自殺をするタイミングとなる節目、そして自らの肉体だけ
でなく、本来なら人々が最も幸せな一時を過ごすはずのクリスマスをも見事に粉砕したウェルテルの自殺。
そして聖職者の手を借りずにあの世に旅だった悲劇の主人公。クリスマスを宗教的というよりは、幸福な
市民生活の枠内での慣習的なコンテクストで用いており、ウェルテルとロッテの家族にもたらした冷酷な
悲劇性をより一層高めている。
by fachwerkstrasse | 2010-12-23 23:56 | クリスマス

待降節 第4主日 & ミヒェルシュタットのクリスマス市

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早いもので、もうアドヴェントも、はや最後の4回目。
あとはクリスマスを待つのみだ。

今回は、あまり人の出が多くなく、しかも
雰囲気満点のクリスマス市をご紹介したい。

フランクフルトの南、ダルムシュタットからさらに南へ
ハイデルベルク、東はマイン川の方にかけて広がる
オーデンヴァルト(オーデンの森)は、温暖な気候と
風光明媚な土地柄で、保養地として人気が高い。

このオーデンヴァルトの中に佇むミヒェルシュタットは、
この地方でももっとも古い街の一つだ。木組み街道にも
リストアップされており、古き良き中世以来の面影を残す
小さな街。いずれ、ここも木組みカテゴリで
じっくりと取り上げていきたい。


____________[Michelstadt Rathausgäßchen 2010 © DFS All Rights Reserved]

フランクフルトとハーナウから南に向かって、エーバーバッハまで伸びている田舎路線の駅があるので、
鉄道でも訪問できる。フランクフルトからは本数は少ないが直通の電車も出ているし、途中で乗り換えや
ハーナウ経由などにすれば、本数も増える。ハイデルベルクからは、ネッカー川沿いのSバーンでエーバーバッハまで行き、そこで逆にフランクフルトに向かうオーデンバルト鉄道に乗り換えて、一時間ちょっと。

古い街並みを観光名物にしているとはいえ、大都市から離れているため、あまり観光客が大挙して押し寄せることはない。こういう田舎町だと、たいていアドヴェント中の週末にしかクリスマス市を開催しないことがあるが、ここは毎日営業している。立地や街の大きさを考えると少々意外な気もするが、週末でもほどよい人の出で、平日だと地元民がぽつぽつをそぞろ歩いている程度なので、のんびりと落ち着くことができる。毎日20時までグリューヴァインや民芸品などの屋台がやっている。

この街のマルクト広場と、市庁舎のアンサンブルはドイツでも特に有名で、
イルミネーションに彩られ雪に覆われた広場の光景は、まさに芸術品。
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_______[Michelstadt Marktplatz 2010 © DFS All Rights Reserved]________

帰りは電車ではなく、バスでエーバーバッハまで戻る接続。しかし雪のためか、バスは15分遅れで到着。
エーバーバッハでの乗り換え時間はわずか10分ほどしかない。果たして間に合うのだろうか?

路線バスなので、一旦市内を周回した後、隣町のエアバッハを抜け、バスは一面真っ暗な道路を
ひたすら走ってゆく。頼りになるのはフロントライトに照らし出される雪化粧の景色の断片だけだ。

ときおり、木組み建築のある名前も知らない小さな村や、原っぱの真ん中の何もない所も通過してゆく。
丘の上に、ライトアップされた立派な古城址もあった。またライトに照らし出された中に、ピンポイントで浮かび
上がっただけなので、その全貌は掴めなかったが、100年程前とおぼしき巨大な煉瓦造りの橋脚もみえた。

途中、カーブの度に停車するノロノロ運転の車がいて、ますますイライラが募る。
また、ある地点では道路の状態が悪く、激しい音を立ててバウンディングすることもあった。

もう一人、同じ電車を目指しているおばさんがいて、運転手としきりに話している。

「いつも電車はだいたい時間通りに来るかね?」 - 「そうねぇ、ここの路線はめったに遅延しないわね」

夜なので、一応その辺のことは考えてくれているようだ。

はたして、暗い山道を抜けてネッカー川に出た時には、ほっとした。発車までまだ7分ほどある。
川沿いをしばらく走り、エーバーバッハの旧市街を抜けて駅まで向かうが、こういう時は一秒一秒が長い。
なんとか乗り換え予定列車の発車数分前にエーバーバッハの駅に到着。
おばさんと、ダッシュでホームに向かったが、無事に間に合ったようだ。
二人で「間にあった、ついてたわね」と話をする余裕もあったほど。

聞けばこのおばさん、なんとプフォルツハイムまで行くとかで、この電車を逃したら、もう接続がないところ。
Sバーン自体は30分おきに走っているので、僕はこれを逃してもそれほど問題ではなかったが、見渡す限り
一面雪だらけの、冷たい吹きっ晒しのホームで30分電車を待つのは、さすがにつらい。無茶な運転をせず、
しかもギリで接続の電車に間に合わせてくれた、サンタクロースのようなおじちゃんの運転手に感謝だ。

旅は道連れ、世は情け。こういうことがあるから、道中は常に気が抜けない。
しかしまた、これが旅の醍醐味でもあったりするから、おもしろい。
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________[Michelstadt Rathaus 2010 © DFS All Rights Reserved]________
by fachwerkstrasse | 2010-12-19 23:55 | クリスマス

待降節 第1主日のためのカンタータ BWV36

先のBWV62にも増して、華やかで祝典的な雰囲気のこの曲。
それは、この曲が辿った複雑な作曲プロセスによるものだ。

BWV61の訳詩がありました。リンク先の情報については責任を持ちませんが、ご参考までにどうぞ。

今回の訳詩はこちら

アーノンクールの音源が上がっていました。

こちらはトーマスカントール、ギュンター・ラーミン1952年の録音

さらに、ヘレヴェッヘの第一アドヴェント用の3曲のCD 試聴のみですが…

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_______[Bad Wimpfen Hauptstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______


この曲の成立事情は、非常に独特かつ複雑な経緯を経ている。元来は誕生日祝いのための世俗カンタータとして作曲されたものが詩句と音楽ともに拡大・不可を繰り返して、実に5度に渡る改定を経た、いわゆる「パロディ・カンタータ」である。そのプロセスの詳細は、少々厄介なテーマなので、またの機会に譲るが、最終的にはコラール詩句に基づいてカンタータの詩句が練られ、最終稿に落ち着いた。

世俗カンタータで付加されていたレチタティーヴォ部分はすべてカットされている。また、ここでもルターの「異教徒の救い主」とフィリップ・ニコライによる「明けの明星」の讃美歌の一節が採用されている。そのため、詩句だけを見れば、ややもすると古めかしいもののように思えるが、それに対して、音楽の様相はきわめてバラエティに富んでいる。それは導入部の合唱曲と3曲のアリアが世俗カンタータとして作曲されたことによる。

導入部では合唱が和声と対位法を交互に織り交ぜ、さらに弦楽器に彩られたオーボエ・ダモーレが先導する煌びやかな器楽合奏が置かれている。当初の世俗カンタータとしての性格に、この室内楽的な編成はまさにぴったりなのだが、教会でこれを演奏するとなると音響面からいくつかの問題が生じたに違いない。バッハはこの点を考慮して、当初の意図とは裏腹に、教会カンタータへの改訂の際に、オーボエ・ダモーレを2本に増強している。

続く二重唱では厳格なコラール処理によって厳粛な雰囲気にガラッと変わる。ルターの「異教徒の救い主」のコラールが緊密な3声体のカノンで処理される。ところが次に来るテノールの歌唱とオブリガートのオーボエ・ダモーレによるアリアでは、典雅なパスピエの緩やかな舞踏のリズムで、導入部の雰囲気が再現される。そして素朴な4声体のコラールで第1部を締めくくる。
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_______[Bad Wimpfen Hauptstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______


ミサでは本来ここで説教が行われ、それに続いて、バスによる力強い華やかなアリアで、第2部が始まる。生き生きと動く第1ヴァイオリンを主体とする弦楽器が祝典的な華やかな雰囲気を醸し出している。

続いて、再び雰囲気ががらっと変わり、「異教徒の救い主」のコラールが、カルテットとして処理される。
ここでは二本のオーボエ・ダモーレと通奏低音が模倣的に処理された対位法のパートを担う一方、
テノールの歌唱は伝統的な讃美歌の歌い方を踏襲して長い音価となっている。

次のソプラノによるアリアは、ソロヴァイオリンとソプラノの歌唱が穏やかな光に包まれたような雰囲気を
醸成し、優美な旋律と弦楽器の優美な音型が交互に奏でられる。弦楽器の音型は、アリアの中間部で
おどけたようなエコー効果をももたらす。終曲では再び「異教徒の救い主」が、ここではコラールの処理は
行われずに、簡素な4声体で歌われる。
by fachwerkstrasse | 2010-12-18 23:07 | 教会暦 カンタータ

待降節 第1主日のためのカンタータ BWV62

前回 BWV61の音源資料を一部変更・追加しました。
またカンタータはやはりすべて教会暦カンタータとして、まとめて一つのカテゴリに整理することにしました。

BWV62の音源は、あまり見当たらないようです。
こちらはソースの記述がありませんが、たぶんブリリアントのバッハ全集収録の
Pieter Jan Leusink; Holland Boys Choir; Netherlands Bach Collegiumだと思われます。
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_______[Nürnberg Frauenkirche 2006 © DFS All Rights Reserved]________


BWV62は、BWV61の作曲・初演からから10年後、トーマス教会カントールとして2年目となる1724年にライプチヒで作曲された。この年は所謂「コラールカンタータの年」とよばれ、この62番のカンタータもご多分にもれず、それが前作との決定的な違いとなっている。すなわち、カンタータのテキスト全体が待降節用のコラール(讃美歌)から成っているのだが、カンタータの最初と最後に来る詩句には手を加えず、それ以外のコラールは、レチタティーヴォないしはアリアの形にふさわしいテキストになるよう修正が施されている。

しかしその書き換えが誰の手になるのかは分かっていない。おそらくこの年にライプチヒ在住であったのだろうと推測される。そもそもこの「異教徒の救い主」のコラール詩句が、ラテン語から翻訳されたものであるわけで、そこからさらに手が加えられたことになる。その結果、ルターの翻訳そのままの部分と、18世紀に改作された部分との違いが際立っている。ルターの詩句が、素朴に神への祈りをささげているのに対し、それに挟まれた中間部分はずいぶんと熱い語り口となっている。

特に4番目のアリアなど、元の詩句が「父の似姿で、肉において勝利をおさめ、永遠なる汝神の力が我々の中で病める肉を遠ざけん」となっているのが「戦え!勝て!強き英雄よ!」と、もはや原形をまったくとどめていない。それに続くソプラノとアルトの二重唱も、元のルターの詩句からは完全に乖離してしまっている。大幅な改竄と短縮が施されているが、これをカンタータの詩句をまとめた作詞者の成果とみなすか、作曲上の都合でこうなってしまったのかは、判断の難しいところだ。
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_______[Bad Wimpfen Hauptstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______

躍動感あふれる冒頭の合唱曲から、コラールの編曲技法が冴えわたる。讃美歌の旋律が一行づつ分解され、4声体合唱のうちの一つの声部に長い音価で現れ、残り3つの声部は和声を構成して主旋律を支えるかモテットのように対位法的に配置されている。これに器楽合奏が合わさって、楽章全体をまとめ上げている。他のコラールカンタータと比較してもモテットの割合が大きい。コラールの各行ごとに模倣の手法が取られ、3行目「これに世の人はすべて驚く」では、大規模かつ象徴的な意味を担うコロラトゥーラがあったりと、かなり大胆な装飾が施されているが、コラール詩句の長さに沿ったものといえるだろう。

続く2曲目のテノールによるアリアでも、舞曲の性格が色濃く出ている。全体としては8分の3拍子のパスピエとメヌエットの中間に位置する舞曲に位置づけられるだろう。歌曲のような豊かな旋律とリズムに彩られた曲頭動機(Kopfmotiv)に導かれる典型的なスタイルだ。

短いレチタティーヴォを挟んで、今度は勇ましいバスのアリアが続くが、ファンファーレのようなユニゾン型の伴奏とコロコロと転がるような歌唱は、作曲当時の「英雄的な効果を持ったアリア」の典型である。この勇ましい曲調から一転して、ソプラノとアルトによる恍惚的な「伴奏付き叙唱(レチタティーヴォ・アコンパニャート)」でイエスの生誕の奇跡と幼子の眠る飼い葉おけへの道程が、遥か彼方の神聖な光で照らすような曲調で象徴的に描かれる。最後にもう一度、ルターがラテン語から訳したコラールが4声体で歌われて終わる。
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________[Heidelberg Schloßplatz 2010 © DFS All Rights Reserved]_______

ところで、このカンタータは、その後1732年から35年の間に再演されたことが分かっている。そして36年にもおそらくもう一度上演されたのではないかと考えられている。バッハの自筆譜には、前作同様にミサの式次第が書き込まれているのだが、このようなメモが必要なのは就任間もない最初の数年に限られると考えるのが妥当だろう。10年間もミサの進行を諳んじていない、などということは考えにくいからだ。にも関わらず、1730年以降にもこうした書き込みが見られだ。これは一体どういうことだろう。

1736年の11月にバッハはザクセン選帝侯から「宮廷音楽家」の称号を授与された。3年間待ち望んでようやく手に入れた栄誉だった。(これの背景には、ライプチヒ市当局との軋轢や、選帝侯への根回し+ごますりのためのカンタータや後にロ短調ミサの下地となるミサ曲もあるのだが、これの詳細はまたの機会に詳しく)

そのためはるばるドレスデンにまで赴くこととなった。記録によれば12月1日の午後にドレスデンの聖母教会にて、新築のジルバーマンオルガンを2時間演奏したとある。この年の第一アドヴェントは翌2日なので、とんぼ返りでライプチヒに舞い戻るということはおよそ考えにくい。そのため、おそらくライプチヒでのカンタータの上演に際しては代役を立て、ミサの式次第を詳細に譜面に記して、この重大な任務を託したのではないだろうか。そう考えると、この年にこの曲が再演されたと考えるのも納得がいくのである。
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________[Dresden Frauenkirche 2008 © DFS All Rights Reserved]________
by fachwerkstrasse | 2010-12-17 18:38 | 教会暦 カンタータ

ヨハン・セバスチャン・バッハ

自分一人で勝手にカンタータ企画をぶち上げた手前、これを機にバッハについて、今現在考えていることを
まとめておきたい。なぜなら、決してバッハを、ただ単に「好きだ」と思っているわけではないからだ。

__________バッハの生誕地アイゼナハのバッハ博物館前に立つ銅像__________
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________[Eisenach Frauenplan 2005 © DFS All Rights Reserved]________

磯山雅氏が「バッハばかりは、趣味で云々できる次元を超えたところに達した人である」と著書の中で
述べておられたが、まったく同感である。(磯山雅(2000)「J・S・バッハ」講談社現代新書 20版 pp. 9)
おそらくバッハに何らかの形で携わっている方々は、プロアマ問わず同じ思いだろうし、知れば知るほど、
弾けば弾くほど、分析すれば分析するほど、聴けば聴くほど、確信は強まるばかりである。

自分の率直な思いとしては「好きだなんて、おこがましい」。
好きな作曲家を挙げろと言われて、バッハなどとは口が裂けても言えない。

テレマンもシャルパンティエも、ショパンもブラームスも、ラヴェルやシェックやマルタン、それにトゥービンやラウタバーラやペルトも「好き」で構わないと思う。(それに正直なところ、僕はブリティッシュ・ロックと80年代の音壁サウンドの方がもっと好きだ)しかしバッハは自分の直感や好みに関わりなく、音楽という領域を飛び越えて、人間が必要としているものをすべて内包している。だからうわべだけの印象で判断するのが憚られる、そんな存在なのだ。野菜が嫌いでも、ビタミンを取らないと病気になってしまうようなものだ。

_________________アイゼナハのバッハ博物館________________
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_________[Eisenach Bachhaus 2005 © DFS All Rights Reserved]________

しかしそれは、バッハを娯楽として楽しんではいけない、ということではない。

むしろ、バッハはジャズにもなれば、ハードロックのコード進行にも採用されていたりするが
それはバッハが時代や様式の制約を超えて、唯一無二のところまで音楽を高めたからに他ならない。
どのような形態であれ、バッハのアイデアを基にすると、第一級のものに仕上がってしまうのである。

それは、アインシュタインが相対性理論を「発見」したように、古今東西を問わず
およそ音楽というものの究極の姿が、バッハによって明らかにされたからなのだ。


ジャック・ルーシエ・トリオ 2009年のハイデルベルク公演にて___________
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ジャック・ルーシエ・トリオ 
1988年2月のライヴ

トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』
『イタリア協奏曲』
第一楽章  
第二楽章 アダージョ 
第三楽章 プレスト

チェンバロによるイタリア協奏曲
ミケランジェリ43年の録音

ウクライナ出身のピアニスト、
ボリス・ブロッホ演奏
ルガンスキー19歳の時の第3楽章も痛快

ディープ・パープル『ハイウェイ・スター1972年 コペンハーゲンライヴ

ディープ・パープル『バーン
1974年 カリフォルニア・ジャム

[Le Trio Play Bach à Heidelberg 2009 © DFS All Rights Reserved]___________

バッハが宗教だから、駄目だという人もいる。その気持ちも、もちろん分からなくもないのだが、バッハが
キリスト教の手先だとか、受難曲やカンタータが一種の宗教勧誘みたいなものだという理解でバッハの音楽
を拒絶しているとしたら、それはまことにもったいない話だと思う。同様に、宗教音楽だからという理由で、
文科省検定済の教科書に「小フーガト短調」は載っていても、マタイ受難曲が載ることはない。
しかしそれでは、レーヴェンブロイだけを飲んでドイツビールを分かったような気になるのと一緒だ。

確かにコンテクストを理解するという意味では、キリスト教の知識は欠かせない。
しかし、個々人の思想信条にかかわりなく、歴史・文化・政治を理解する上で宗教はどの道避けては
通れないのだし、その意味でははなから毛嫌いしていたのでは、世俗の事柄や現在進行中の出来事や
時事問題の理解にも支障をきたしてしまう。だから、あらゆる宗教を「学ぶ」ことは必要だが「信じる」必要は
全くない、そう思っている。(自分はクリスチャンではありません、念のため。ただの惰性的仏教徒です)

だから信仰心などなくても、バッハの音楽は理解できるものだし、場合によっては信者として日々の礼拝の中でバッハの音楽に対峙してきた人よりも、音楽にのみ目を向けている人の方が、バッハの神髄により近づいている、ということもありえるだろう。逆に慣習としての宗教の枠内にバッハの理解を限定するのも、バッハを宗教音楽だからと言って敬遠するのと同じくらい、もったいないことなのだ。

____________バッハが洗礼を受けた、アイゼナハのゲオルク教会___________
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________[Eisenach Georgkirche 2010 © DFS All Rights Reserved]________
by fachwerkstrasse | 2010-12-16 23:55 | J.S.バッハ 雑感

待降節 第1主日のためのカンタータ BWV61

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教会暦の冒頭を飾るに相応しい華麗なカンタータ。


ワイマール時代の1714年の作品である。

ワイマール城の教会でのミサのために作曲された。


当時の城は、ゲーテの意匠で再建された
現存する古典主義様式のものとは異なる。

右側がゲーテ在任当時に再建された部分、
左の塔のみがそれ以前から残る部分である。


________________[Weimar, Stadtschloss 2009 © DFS All Rights Reserved]


ニコラウス・アーノンクールのあつ~い演奏を、こちらでどうぞ♪ オーストリアのメルク修道院でのライヴだ。
こちらは、この曲が作曲された当時の「前衛性」を前面に打ち出した表現だと言えるだろう。

コープマン&ABOの演奏もあった。アーノンクールとは随分と様子が違う。
あまりコープマンらしからぬ(?)内省的な表現になっている。
バッハのほとばしる創造意欲よりは、元のルター派のコラールの伝統に重きを置いて、
表現のバランスをとっているようだ。しかし、おごそかにクリスマスを祝う温もりに満ちている。


同じく待降節 第1主日のためのBWV62ともども、ルターのコラール「異教徒の救い主が来たれり」からカンタータは始まる。これはラテン語の讃美歌をルターがドイツ語に翻訳したもので、1524年に発表された。ベースとなっているのは、マタイによる福音書21章で、イエスのエルサレム入場と救い主の到来が描かれている。マルコとルカの福音書にもほぼ同じ記述がみられる。

歌詞として採用されたのは、エルトマン・ノイマイスターの詩句。ハインリヒ・シュッツが少年時代を過ごしたヴァイセンフェルス近郊の出身で、様々な要職をこなしていたが、聖書に基づいたカンタータ用の詩句を集成したものを1714年にフランクフルトで出版した。当時そこの楽長であったテレマンに献呈されている。実は同じ年にテレマンは、カール・フィリプ・エマヌエルの代父を務めているのだ。息子が晩年に回想している通り、二人の大音楽家は実に親密な関係で、様々な情報交換をしていたことも容易に推測できる。そうでなければ、出版されたばかりのカンタータ詩句を用いることなどできなかったであろう。
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________[Heidelberg Marktplatz 2010 © DFS All Rights Reserved]________

ノイマイスターのテキストには、レチタチーヴォやアリアの形で自由に創作された詩句に加えて、コラール(讃美歌)や聖書からの引用などが自由に織り込まれている。このような形式は長きに渡ってノイマイスターが新たに創出したスタイルであるとみなされてきたが、実は彼のオリジナルでもなければ、本人も特別そこにはこだわっていなかったことが判明した。元来は聖書からの引用やコラールの詩句を含まない形式を得意としており、上記のカンタータ詩句集の出版前に知られていたノイマイスターの姿は、まさにそれであった。61のカンタータのような混合形式は17世紀にまで遡り、ノイマイスターがこの形式に触れたのは1704年のことであった。

カンタータの詩句をみてみよう。Kommen(来る)というのは、カンタータ全体を通じて最も重要なキーワードである。聖書から引用した個所以外では、ほぼすべてに織り込まれている。3番目のテノールによるアリアでは、具体的に新しい年への祝福への祈りが歌われている。それに対して、続くレチタティーヴォでイエスが応える。詩句はヨハネによる黙示録3章からとられたものだ。ここで「戸を開き、中に入る」と謳われている意味は、次のソプラノによるアリアで明かされる。

締めくくりのコラールは、1599年のフィリップ・ニコライによる「明けの明星」の讃美歌から一部が取られたものである。明けの明星はイエスの象徴であり、アドヴェントに入ると街中に星の形をした灯が吊るされる他、日本でもクリスマスツリーのてっぺんに載っている星の飾りでおなじみですね。
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_________[Heidelberg Plöck 2010 © DFS All Rights Reserved]_________


ではバッハの音楽はどうだろう。冒頭の合唱曲からして、ルターによる伝統的なコラールの詩句を、当時最先端の(それも中部ドイツの田舎で!)フランス風序曲の形式ならびに楽器編成で奏でるという、大胆な開始の仕方だ。30歳になったばかりの若き宮廷オルガニストの持てる力が全て発揮されている。この第一曲目は3部形式で、両端部分の、引きずるようなリズムと荘重な響きは、17世紀のフランス・オペラで国王の到着を告げるファンファーレの模倣である。当然これはイエスのエルサレム到着のイメージに結び付けられている。自ら収集した音楽形式と、そこで慣習となっている象徴的なモチーフを、カンタータの詩句に沿って効果的に用いるという、実験的な試みが早くもなされている。しかしこのような祝典的なイメージにも関わらず、調性が短調となっているのは、讃美歌の伝統を意識したものである。

作曲および初演から11年後、バッハがライプチヒに着任した最初の年に再演されたことが確認されている。バッハはその際に、ミサの式次第をオルガニストの仕事に至るまで詳細に総譜に書きとめている。実際のミサでは、カンタータの各部分を式全体の中で分散さして、説教などの間に演奏することもあるのだが、この61番のカンタータが、ライプチヒでの再演の際に、具体的にミサのどの部分で上演されたのかは分かっていない。ただし、バッハのメモを元に推測するなら、ミサの後半部分でまとめて上演された可能性が高い。

西洋音楽の百科全書と謳われるバッハのカンタータ。教会暦最初の、それも若き創作意欲あふれるこの作品からして、大バッハの面目躍如たるところだ。
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_______[Bad Wimpfen Hauptstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______
by fachwerkstrasse | 2010-12-14 23:57 | 教会暦 カンタータ