まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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次世代の演奏家たち (前置き)②

芸術について論じるのは、個々人の趣味だという意見もあろうが、あえてそれが間違いであると、この場では言わせて頂こう。

誤解のないように言い添えておくと、別に自分の好みが正しくて他人の好みが間違っているとか、そんなことを言っているのではない。いくらなんでも、そこまで傲慢ではない。

そうではなくて、自分の好き嫌いで判別してよいものと、個人の趣味を超越したところにあるものとがあって、後者に対しては自分の価値判断だけでよしあしを判断するのは軽率だと、こういうわけである。

自分はヘヴィ・メタルが大好きだ。プログレも素晴らしいと思うし、さらにモロ自分の好みということになれば、80年代のスペクターサウンド(音の壁)が大好きで、これさえ聴いていれば、他には何もいらないと思ってしまう。G.G. Andersonや岩崎元是なんかツボである。ポップスの中では(メタルもそうだけど)英国モノが好きだ。シンプリーレッドは今年最後のツアーをやると言っているが、残念だなぁ。

しかし、これらを一方では自分はどうでもいいものだと思っている。もしこの世からなくなってしまったら残念だと思うが、一方ではなくなった方が人類のためであるとも思っている。自分にとって大切だが、所詮は自分が好きであるに過ぎない。

個々人の好みを手放しで肯定できないのは、例えばこう考えればわかると思う。

体のことを考えたら、バランスのとれた健康的な食事をとることが大切だ。しかし実際には、野菜が嫌いな人、脂っこいものや甘いものが大好きな人、酒やタバコが好きな人、加工食品ばかり食べている人、と様々だと思う。だが、そんな食生活を続けていると、やがて体を壊してしまう。しかしストレスを感じたら、タバコも吸いたくなるだろう。体を壊しては元も子もないが、人間必ずしも「いいもの」だけでは生活していけないものだ。

精神的な栄養に関しても同じことがいえるのではないか。自分が芸術を貪欲に摂取しようとしているのも、まさに精神の健康のためだ。しかしそうはいっても、まじめな音楽だけでは疲れてしまうので、たまには好きな音楽も聴きたくなる。そんな時には、そんな弱い自分を一方で苦笑しながら、しばしの休息を得るのだ。

個人の趣味を超越した、人類にとっての遺産と言う意味では、所謂「クラシック音楽」(この呼称はかなり問題あるものだと思っているが、目下これにかわる通称が見当たらないのだから、仕方がない}の価値の方がはるかに高い。

そんな中でも大バッハや、それ以前のバロック・ルネサンス、さらには中世から古代にかけての音楽の価値は、19世紀に一般市民を聴衆とするようになった音楽よりも、さらに遥かなる地平を切り拓いている。

もっとも、今我々が耳にすることのできるこれらの音楽が本当にしかるべき姿なのかは、大いに疑問の余地があるが、それでも素晴らしいものであることは十分うかがい知れるのだから。特にバッハ、その時代ごとに様々な姿で我々の前に現前し、バッハについての様々な試行錯誤や葛藤、研究調査は、他の作曲家の場合をはるかにしのぐ豊かな実りをもらたしてくれる。たとえ結果的にそれが間違っていたとしても、だ。

これはもちろん、時代の流れを経て、様々な研究と啓蒙普及活動のおかげで、そのような「規範化」が行われているのではあるが、はたしてプロ・アマ問わず、実際にこれらの音楽に携わっている人達の率直な思いとして、それらが底知れぬ素晴らしさを兼ね備えていること、最初はとっつきにくく理解するのも大変だが、その壁を越えた向こうにある豊饒な世界の存在を確信しているのだ。(かく言う自分も、及ばずながらその一端を垣間見せてもらっていると思っている。そしてまさにそれこそが、芸術に情熱を注ぐ一番の理由ではないか!

だから、人類が獲得した遥かなる崇高な世界、今の時代の所与に留まっていたのでは到達できない高みを目指す第一歩を踏み出す上で、古いものに目を向けるという姿勢はとても大切だと思うのだ。しかし、今の物質的に豊かな時代では、新しいことに専ら価値が置かれている。

だが、例えば数千年間蓄積されてきた文化遺産とここ一年の新しい文化的営みをそれぞれ一覧にしてみた場合、数の上では圧倒的に後者の方が勝るだろう。だが、その重みや重要性はどちらの方がはたして上だろうか。後者のうち、本当に我々に精神的な充足感を与え、知的な議論の題材となり、前者と同じように後世に残っていくものが、はたしてどのくらいあるだろうか。

演奏家に限らず「新しい」ことの最大の落とし穴はここだ。ポップ・カルチャーでは、この「新しい」ことが最大のポイントであったりもするが、時間がたってみないと、それが「新しさ」のみのニセモノだったのか、永遠に残りうるものだったのかは、わからない。

例えば、今のHMを聴くくらいなら、ブラック・サバスさえ聴いていれば、結局それ以降のHMのエッセンスは全てそこにあるし、(影響を及ぼしたとみるか、そこから進化してないとみるべきか…) 洪水のように溢れ出るポップスの新譜に手を伸ばすくらいなら、マディ・ウォーターズエディ・ボイドを聴いている方が、よっぽど充実のひと時を過ごせるというものだ。(デルタ・ブルースまでいくと、さすがに録音が古すぎるしなぁ)

ズバリ言ってしまえば、20世紀の大衆音楽なんて、表現形態が多少変わったくらいで、所詮はみんなロバート・ジョンソンの焼き直しにすぎない。そんな中で、確立されたものと新しさと、人気とは必ずしも一致しない職人的な演奏能力の高さと、大衆的人気のバランスを最良の形で体現している、おそらく最後の存在がアイアン・メイデンだと思う。(もちろん、大衆音楽という枠内での話)

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___[Ludwigshafen, Südwest-Stadion, 8 Jun 2007 © DFS All Rights Reserved]____

考えてみれば「古典」として定着しているものも、同時代の「新しい」ものとせめぎ合って来た中で生き残ってきたものなのだ。だから新しいものにとびつくよりも、古いものの評価を信じて選択した方が、当たる確率は大きい。

そして、人間が芸術に接する目的とは、その普遍なるものに如何に近づけるか、そのためのいわばトレーニングのようなものであると考えている。アーノンクールが言うように、我々の「目を開かせる」ためであり、単なる癒しやリラックスのための娯楽ではないのである。

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_______[Stuttgart Staatstheater 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

以上を踏まえて、自分が演奏家について判断する基準は以下のとおりである。

① 演奏家が「王様」になっていないこと。演奏家は作品に対する「しもべ」であり、演奏家が自分を誇示するために演奏をすることはならない
② 伝統にあぐらをかいていないこと

一口に「楽譜に忠実」といっても、作品の解釈は日進月歩。特に20世紀後半から楽譜の校訂が進み、出来る限り作曲者の本来の意図を反映できるように、様々な調査研究が行われている。当然昔の演奏を聴く際には、その辺は割引いて評価する必要があるが、たとえ演奏家として評価を築いた人であっても、このような研究の動向には注意を向けておくべきである。

20世紀中ごろまでは「演奏」において一つの伝統が確立されてきていた。演奏家が絶大な権力を誇っていた時代には、それでもよかったのだが、現在ではできるだけそうした埃を取り払った、中立的な演奏が試みられている。それの善しあしはさておくとして、現代のそのような潮流にあっても、いやむしろかえってそのために、非常に個性的な刺激的な演奏家が出てきているのである。特にこういった人達をとりあげていきたい。
by fachwerkstrasse | 2010-10-18 16:02 | 次世代の演奏家たち

伝統へのまなざし

前回に京町屋を取り上げたが、伝統家屋に着目しなければならないと考えたきっかけは、
むしろ日本だった。

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______[長野、善光寺 本堂(国宝) 2004 © DFS All Rights Reserved]______

ヨーロッパの教会は石造りで、真夏でも内部に入るととても涼しい。機密性と断熱性に優れているために、夜間の冷えた空気がそのまま日中も残っているのだ。教会だけではなく、百年以上の古い建物でも同様である(うっかり窓を開けて喚起すると、昨今の異常気象の熱波が室内に入り込んでしまう)

同じことが日本の伝統建築でも起こっていたのには驚かされた。真夏に善光寺や西本願寺にお参りした時のこと。外はうだるような暑さなのだが、中に入るとひんやりとしていて、実に気持ちいい。日本ならではの湿気もどこかへ消えてしまっている。

外には縁側があり、床も地面から持ち上がっていることで、通気性がとてもよくなっているのだろう。この異常気象の中でも、境内に入ると風通しが良くてとても涼しい。日本は温暖湿潤気候であるにも関わらず、鉄筋コンクリートで空間を密閉してしまうから、風通しも悪くなって冷房が必要になってしまうのだ。そして外は排出熱が放出されさらに過熱される…。

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__[京都、西本願寺 阿弥陀堂(本堂)(重要文化財) 2004 © DFS All Rights Reserved]__

また衣類に関しても、例えば浴衣にしろ平安時代の貴族の衣服にしても、夏では風通しをよくして涼しくなるように考えられているのである。わざわざネクタイで首を絞めて、何枚も重ね着して体を蒸し上げる必要などないのである。ハワイや沖縄の正装を見るがいい。

伝統的な家屋や衣装というものはその外見以上に、構造に関してもそれぞれの土地や気候に合わせた合理的な作りとなっているのである。20世紀に入って、それらを無視して、あたかも欧米で発達した「現代」が普遍的な価値基準であるかのごとく(もちろん、それらを無批判に受け入れてしまった方にも責任の一旦はある)町と言う町に鉄筋コンクリートを広め、猫も杓子も西洋式のスーツを纏うようにてしまった。

その結果、例えば温暖湿潤なアジアの場合は部屋の中にも都市の内部でも空気が滞留してしまい、内部の空調設備が必要となり、結果としてさらに気温が上昇するという悪循環の繰り返しである。所謂ヒートアイランド現象:東京の場合、汐留に作られた高層ビル群が海風を完全に遮断してしまい都内の気温上昇はますます加速している。

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_________[東京、西新宿 2009 © DFS All Rights Reserved]__________

また自分が現代建築や都市計画に一番嫌悪感を催すのが「国や地域ごとの個性」の抹殺である。ちょうど、発展にわくカンボジアの特集が朝日新聞であったが、ベルリンでも北京でもカンボジアでも、新興都市部の建設ラッシュで観られる風景はどこも同じだ。20世紀のわずか百年の間に、世界中のいたるところで地域ごとの「個性」が消されていっている。ベルリンでも、19世紀までの様式やスタイルが壁崩壊後にどんどん取り壊され、均質的な都市計画が遂行されている。

急発展、支えは外資 変貌―プノンペン(上)
若者、流行へ一直線 変貌―プノンペン(下)

こうした点の怖いところは、一度壊したものは二度と戻らない、ということだ。建物にしろ、風俗やメンタリティにせよ。もちろん時代ごとの変化はずっとあったのではあるが、20世紀以降の変化のスピードと破壊力は前代未聞のものだ。
by fachwerkstrasse | 2010-10-17 01:03 | 京町屋

日本を見つめ直す

一カ月弱の日本滞在を終えて、ドイツに戻ってきました。フライトや出発の準備、またすぐさま新学期に突入だったのでしばらく更新が滞ってしまったことをお詫び申し上げます。これからまた、出来る限り定期的に記事をのせて行きますので、よろしくお願いいたします。

3日間京都にも滞在しましたが、今回は発見の旅になりました。きっかけになったのは、昨年の『週刊文春』巻頭グラビア特集でみた、昔と今の街並みの空撮写真でした。

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______[京都 法観寺(八坂の塔) 2010 © DFS All Rights Reserved]_______

昭和30年代までの京都は、まだ「町屋」とよばれる伝統的な木造家屋がひしめく街並み。これに神社仏閣が合わさって、まさに古都の景観。しかしそれからわずか20年ほどで、一面鉄筋コンクリートの海に変貌してしまっていた。京都は空襲による破壊を免れたが、結果的に他の大都市と変わらない景観を作り出してしまっている。どのみち、日本人みずからの手で伝統を破壊してしまっているというわけだ。

(さしあたり、こんな写真しかネット上では見つかりませんでした…)

確かに京都には重要な神社仏閣があふれている。しかし1200年の伝統を誇る街だからこそ、ピンポイントで歴史が残されているだけでは、古都と呼ぶにはふさわしくないだろう。実際多くの外国人が京都に来ても、近代的な駅ビルと自動車がひしめく大通り、そして見渡す限りの鉄筋コンクリートに失望させられることが多いと聞く。

(安倍晴明が式神12体を封じ込めた(とされる)一条戻橋。周囲は一面鉄筋コンクリート)
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_________[京都 一条戻橋 2010 © DFS All Rights Reserved]_________


日本人がヨーロッパに来て、期待にたがわぬ街並みだと感じるのは、おそらく街全体としての保存がより徹底しているからではないだろうか。ただ、ドイツの場合は田舎町でしかその恩恵にはあずかれないわけだが…。ちなみに、北京でもいま、伝統的な庶民街である胡同(フートン)が急ピッチで破壊されてしまっている。

京都では年々多くの町屋が失われているが、一方で組織化された保存運動も起こっている。

今回、京都駅近くの新町通りを歩いていて、偶然その町屋保存運動のパンフレットに行き当たった。写真の建物は京都町屋作事組事務局の建物で、明治初年の建築。作事組が保全・改修工事の監修を行った。
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_________[京都 新町通り 2010 © DFS All Rights Reserved]_________

平成11年(1999年)に発足した京町屋友の会は、京町屋のよさを広く理解してもらうために様々な催しを行っている。また町屋の修繕や保存に具体的に取り組んでいる京町屋作事組、そして全国レベルでも作事組全国協議会というのが発足している。

後者はようやっと2007年に発足したばかりの新しい取り組みだが、観光資源としても京町屋は再び見直されつつあるらしい。心強く感じたと同時に、できるだけ日本のこうした「ふつうの街並み保存運動」も追って行きたいと思った。さしあたって、今回収拾した写真のいくつかも、折に触れて紹介していきます。こうした「宝物」としてなかなか認知されていない「お宝」にも、もっと目配りしてゆかなくては!

また、参考までに他の町屋に関するリンクを挙げておきます。

京町屋ステイ
京都町屋資料館
京町屋サイト 京都de町屋スタイル
by fachwerkstrasse | 2010-10-13 23:55 | 京町屋

次世代の演奏家たち (前置き)

次世代の演奏家たち、のカテゴリを新規に開設しました。

ゲーテとヴェッツラーについて、まだ筆が進まないので 同じテーマが続いても退屈でしょうから、こうして時折違うテーマが続くこともあります。カテゴリではきちんと分類していますので、そちらでご覧いただければ順番通りになっている(やってゆく)はず。。。

いかに自分の関心(とブログで取り扱うテーマ)が古いものに向かっているからといって、演奏芸術である音楽の場合は、最新情報にも注意を払わなくてはならない。

20世紀は「巨匠」の時代だった。古い録音からも伝わってくる強烈で未曾有の個性の持ち主たちが数々の伝説を作った。そうした時代を懐かしむのは良いが「あんな時代はもう二度と来ない」などと言って今の時代に目をそむけてしまうのは、あまりにもったいない。確かに19世紀的な、演奏家が絶大な権力をふるった前時代的な演奏を今の人達に期待するのは無茶な話だし、そうした解釈をもし現代において披露すれば、それは確かに「間違い」なのだ。その意味で、100年前と比べたらはるかに今の演奏は即物的であるといえるだろう。

しかし、グールドのように聴衆と同じ空間でのコミュニケーションを拒否したような極端な例も、もちろん議論の対象にはなるのだが、やはり音楽は生で聴くものだと思うし、作品そのものも、また演奏家の実力も、同じ空間を共有しないことには伝わってこないと思う。経験上、生でのみ、おそるべき「何か」を聴衆に伝えるマエストロがいることも知っている。(この手のものは、読書感想文などと違って、現物を示すことができないため、同じ空間で共有できなかった人には「はい、そうですか」と素直に納得して頂く他ない)

(ドイツ期待の若手ピアニスト、シュミットのワイマールでの演奏会の休憩時間にて。ただし、このスタインウェイはあんまり状態がよくなかった。そもそも彼にはベヒシュタイン方が合っているのに…)
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____[Weimar, Festsaal im Stadtschloss 2010 © DFS All Rights Reserved]_____

このカテゴリでは、そんな次の世代を担って頂く大切な芸術家の方々を取り上げていきたいと思う。
演奏家を論じるのも、ただ単に個人的な印象で判断するだけではだめで、演奏というものがどのように移ろいできたのか、彼らが提示する解釈には、今のこの時代にどのような意味をもちうるのか、それを考察しなくてはならない。またそれと同時に、表面的な解釈や技術で正しい判断基準を持ち合わせていない大衆の人気をかっさらい、単なる金稼ぎのみで成功している、はったりの演奏家も喝破してゆかねばならない。
by fachwerkstrasse | 2010-10-09 23:19 | 次世代の演奏家たち

ゲーテの足跡を訪ねて -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-③ -

ここからは、これから順次執筆予定の「ゲーテの足跡を訪ねて」のカテゴリで進めていきます。
街の前史に関しては、木組み街道カテゴリ収録のをご覧ください。

ストラスブール大学の法学部を無事に卒業したゲーテ。だが学位はLizenziat(=ライセンス、要するに職業資格で、学位制度上は今日の修士号にだいたい相当する位置づけ)といって、当時の一般的な大卒学位であった博士号は取得できなかった。立法制度について論じた学位請求論文に教会制度を攻撃する内容が盛り込まれていたことが問題視されたのである。

件の論文自体は消失しているが、疾風怒濤前のゲーテのこととて、おそらくほとばしるように、ひょっとしたら学術論文の「お約束」をも無視しながらラテン語の卒業論文を熱く書きあげたのではないだろうか。だが、そんな論文で博士号を授与したら、大学当局までもが連帯責任で宗教権威への反旗を翻したも同然となる。スキャンダルになることを恐れた教授会は、弁護士として開業はしてもいいよ、という職業資格を授与することで、なんとかお茶を濁したわけだ。

(ストラスブール大聖堂に感銘を受けたゲーテは、この「ゴシック建築」を「偉大なるドイツ精神の体現」だとした。これがのちのロマン主義におけるゴシック再評価につながり、ケルン大聖堂はその流れを受けて19世紀に完成された。)
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_______[das Straßburger Münster 2009 © DFS All Rights Reserved]______

病気でライプチヒでの大学生活を中断したゲーテが、フランクフルトの実家で療養中に母の友人であったクレッテンベルクという修道女から、敬虔主義の感化を受ける。同時に神秘思想や錬金術にも触れ、これが後のファウストへの足がかりとなる。この頃にゲーテの宗教観が形成されていったと考えられる。それは既存の組織や慣習といった形にとらわれるのではない、人間の感情や自然をありのままに肯定し、直接的な「神」の体験ないしは神秘的合一を目指すものである。当然ながらこれは教会の存在やその権威を否定することになるので異端であり、当時でもまだまだ危険な考えであった。実際ゲーテはスピノザも研究するが、そのことを大っぴらに言うことはまだできなかったという。

ヴェッツラーに限らず、古いドイツの街中をほんの10分でも散策すれば、市街地の中心をなす大聖堂はいやでも目につく。しかし後にこの町を世界的に有名にしてしまった半自叙伝的小説の中で、自然描写が情熱的かつ詳細になされているのに比して、堂々とそびえるあの大聖堂には一言も触れられていない。すでにこの時点で教会権威に反感を持っていた若きゲーテの、汎神論的な世界観ゆえとみて、まずよいだろう。

(冬のヴェッツラー。ラーン川沿いの丘の上に街が築かれ、大聖堂がてっぺんに聳える)
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______[Wetzlar, Dom und Altstadt 2009 © DFS All Rights Reserved]______

フランクフルトに戻って弁護士として開業したゲーテだが、仕事はまったくやる気なし。訴状をこしらえ法廷弁論を行っても、当時の慣習からはおよそかけ離れたものばかりで、仕事にならない。見かねた父親が代わりに仕事を引き受ける有様だが、それをいいことに息子は文筆思索にふける毎日。

父親はギーセン大学を卒業した同じく弁護士で、几帳面に黙々と仕事をこなす典型的なドイツ的職業人であったらしいが、後にワイマールで息子が任官されるようになっても仕送りをしていたらしいから、やはり息子がかわいくて仕方がなかったのだろう。しかし文化史的にはこれほど意義ある将来投資は例を見なかったといえる。ゲーテ家の息子は「鉄腕ゲッツ」の物語を一気呵成に書きあげ、戯曲として推敲し、2年後に自費出版。従来の演劇観を打ち破る画期的な作品として瞬く間に評判となり、時代的にはこれを持って「疾風怒濤」の時代に入ることになる。

仕事に身が入らない息子を見かねて、父親はヴェッツラーにある神聖ローマ帝国の最高裁判所にあたる帝国最高法院(Reichskammergericht)での司法修習(職業訓練)に息子を送り込む。しかし、よもやそれがさらなる「文学的」進歩を促すことになろうとは、その時誰が予想しえただろうか…。
by fachwerkstrasse | 2010-10-07 23:50 | ゲーテの足跡を訪ねて

ドイツ木組みの家街道  -帝国高等法院の街 ヴェッツラ- ② 

石器時代から人間が定住していた痕跡が見られるが、現在に連なるヨーロッパ都市としての歴史はカロリング朝の時代にさかのぼる。Wetzlarの語尾-larは、ゴスラーやフリッツラーなどと同様、ケルト人が3世紀ごろまでに定住していたことを示唆するものだ。また古フランク語の(hlar/hlari)で柵、足場、骨組みを意味するものでもあるらしい。

832年にインゴルトという人物がロルシュ修道院に寄進をしたとロルシュ写本の年代記に記されているのが、最初の記録である。市(マルクト)の開催権が付与された年月は特定されていないものの、現在の大聖堂広場の周りで定期的に市が開催されるようになり、祝祭日ともなると教会関係者や商人、手工業者がここに集うようになる。12世紀後半からは帝国都市としてフランクフルトに次いで、ヘッセン地域で重要な位置を占めるようになった。
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________[Der Wetzlarer Dom 2007 © DFS All Rights Reserved]________

皇帝フリードリヒ1世(赤髭バルバロッサ)は、この都市に伯爵(Vogt)を置き、フランクフルトと同様の市民権を付与した。「カールの口 Karlsmund」と呼ばれる巨大な防塁が郊外の山上に築かれ、今でも遺跡として残っている。

その後街は一時衰退するものの、17世紀後半にファルツ継承戦争で荒廃したシュパイヤーから神聖ローマ帝国の最高裁判所にあたる、帝国最高法院(Reichskammergericht)が移転してきたことで、再び繁栄。法律家や貴族などの上流階級が移り住んで街はにわかに活気を帯び、バロックやロココ様式で彩られるようになる。これが現在の街並みに直結している。
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_______[Der Wetzlarer Domplatz 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

19世紀後半からは工業も発達し、今日に至るまでヘッセン州中部の重要な産業拠点となっている。ただ、それが災いして、第二次大戦時にはこの街も空襲の標的となった。だが幸いにして、旧市街では大聖堂が大きな損傷を受けたものの、街並み全体を損なうほどの被害はなかった。しかし、旧市街の中心部には、明らかに60年代ごろに建てられたと思われる鉄筋コンクリートのアパートなどが散見される。古い街並みへの意識が80年代以降にも芽生えてなければ、そのままこの古い街並みは損なわれていたかもしれないのだ。

なお戦後の市町村合併で小話がひとつ。77年に隣のギーセンや周辺の村落と合わせStadt Lahn(ラーン市)としてヴェッツラーは一つの巨大な街に統合された。しかしわずか二年でこの合併プロジェクトはとん挫、結局もとのギーセン・ヴェッツラー、そしてそれぞれの街ごとに周辺地域を含む二つの大規模都市群に分割された。

だが何と言ってもこの町の名を世界に知らしめているのは、あの文学史上に燦然と輝く大ベストセラーである。
by fachwerkstrasse | 2010-10-05 23:49 | ドイツ木組みの家街道

ドイツ木組みの家街道 -帝国高等法院の街 ヴェッツラ-① -

最初にご紹介するのは、フランクフルトの北約100キロに位置するヴェッツラーの街。ここは僕にとってもいろいろな意味でとても重要な街だ。個人的な思い入れの強い街ということだと世界一かもしれない。

交通アクセス:★★★★☆ フランクフルトから直通のDillenburg行RE、あるいはKasselを通るRE/ICでギーセン乗り換えで一時間ほど。駅から旧市街へは徒歩15分、駅前ターミナルからバスで5分ほど。ただし、どのバスが旧市街の付近を通るのかは、事前に調べておかないと少し分かりにくい。また旧市街の中をミニバスが運行している。

木組み度:★★★☆☆ 街全体としては古い街並みがよく残っている方ではありますが、鉄筋コンクリートもチラホラと見受けられます。また近世以降のバロック建築もほどよく混ざっています。あとは木組みの表面を蓋した建物も…

所要時間:旧市街をざっとまわるだけなら1時間程度。博物館などを巡るにはさらに3時間ほど。ここで紹介する歴史的な建造物(要するに旧市街全域)をすべて見て回るには、さらに数時間。郊外の森も含めると一泊は必要になる。さらに近郊のゲーテ関連の見所もまわるには、事前にスケジュール調整の上、2泊は必要になるだろう。旧市街は坂道が多く、地図で観るよりも、実際の徒歩の移動は骨が折れるので要注意。

小さな街ですが、実はゲーテ以外にもお宝がごろごろ転がっている街で、すべて見ようと思ったらかなりの時間がかかります。最初は地味な印象を受けるかもしれませんが、探求すればするほど、味のある街だというのが実感です。

観光地度:★★★☆☆ ゲーテ関連で観光地としての整備はされていますが、実際には地元の人がのんびりと散策している静かな町です。

必見!:あえて申すまでもないでしょう、ドイツ文学ファンには…


ここはかつての神聖ローマ帝国の最高裁判所に当たる帝国最高法院(Reichskammergericht)が置かれていた場所だ。そして18世紀の後半、法律家の学位を取得したばかりの、ある若い男が司法修習のためフランクフルトからやってきた。今日この町が有名なのは、ひとえにこの男と、この男の個人的体験と、それをもとにした大ベストセラーのおかげである。わざわざここでその名を挙げるまでもないだろう。

晩年に「この本が自分のために書かれたと思えるような時が人生でなくてはならぬ」と作者自身が言っているが、それこそがまさに僕自身の出発点であったといえよう。そしてこの町が、木組み街道の旅の出発点ともなったのである…。

ヘッセン州の中部に源を発するラーン川。ギーセンの南側で西に大きく屈曲して最後にはコープレンツの近くでライン川に合流する。そのラーン川をギーセンから下ったところにある隣町で、ラーン川にかかる橋と丘の上に広がる旧市街と大聖堂が見事なパノラマを織りなしている。
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__[Wetzlar, Alte Lahnbrücke und historische Altstadt 2007 © DFS All Rights Reserved]_
by fachwerkstrasse | 2010-10-04 12:27 | ドイツ木組みの家街道

ドイツ木組みの家街道 -はじめに -

さて、長きに渡った能書きプロローグに一段落つけて、ようやく木組みの街並みに移ります。

この「木組み」カテゴリでは、以下の点について星印5つを満点に、それぞれの街の様子についての目安をお伝えしようと思います。

交通アクセス:電車で行ける街、バスを乗り継いでゆく街、また駅からすぐだったり、駅からさらに徒歩??分だったり… 交通アクセスの良さについて「感覚的に」表示します。筆者はこれまでのところ、交通費をかけずにすべて公共交通機関を利用して行っています。しかし自分でいうのも何ですが、予算面からもストレス度合いからも車で行かれた方がいいと思います。

木組み度:実は街道沿いの街といっても「どうしてここが?」と思わざるを得ないような街もチラホラあるのです。しかし、逆に期待に十二分に応えてくれる街、きれいなまでに木組みの家でびっしりの街など、様々です。「行かなくてもいいような街」と識別するために、星印5つ満点ではかることにしました。もちろん、これは実際に見てきた僕の独断と偏見。

所要時間:街全体をざっと見るのに要する時間の目安です。もちろん個人差はありますのでご了承ください。

観光地度:観光地としてアピールを図り、たくさんの観光客が訪れている街もありますが、逆に地元民が日常生活を送るだけの静かな街もあります。

必見!:街の中には音楽家や文豪ゆかりの地だったり、歴史上重要な出来事の舞台になったところもあります。そこで例えば音楽ファン必見の街は「音楽」と記してゆきます。


街の歴史などの基礎情報については、主にドイツ語のウィキペディアを参考にしています。

ウィキペディアには情報源としての信頼性や正確性について疑問がもたれています。確かにこれを学術論文などでそのまま引用することはできません。しかし、複数の人が執筆し、かつそれを様々な人が閲覧することで、内容の正誤や解釈の違いに関するチェック機能がむしろ働き、また最新情報などもすぐに反映されますから、印刷物の情報よりも信頼性に優れている、と自分は考えています。

また、ドイツ語のウィキペディアは、ドイツのアカデミズムの特技とも言える、学術的に正確な情報処理の伝統が反映され、従来の百科事典に負けず劣らずの内容と正確さを誇っています。

この点を御理解下さい。では歴史探訪の旅へ!
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_______[Fritzlar, Marktplatz 2009 © DFS All Rights Reserved]________
by fachwerkstrasse | 2010-10-03 23:17 | ドイツ木組みの家街道

なぜ「木組み街道?」 - (14) - 街並みの意味するところ -

我々が、こうした負の歴史もきちんと消化した上で、素直にドイツ文化と向き合えるようになるには、あと数百年かかるかもしれないし、ギリシア文明が近世ヨーロッパで「再発見」されたような「ルネサンス(文芸復興)」を待たなくてはならないのかもしれない。ドイツ人であろうとなかろうと、ドイツに住み、ドイツの言葉を学び、ドイツの文化を学び、ましてそこに自らの理想郷を見出そうとする者は、常にこの歴史と対峙してゆかなくてはならない。すなわち、内面性をキーワードに未曾有の深遠さを誇った文化は、外界の現実にはあまりにも疎く、無防備だったのである。

1794年にイエナに移ってきたフィヒテの住居だった建物。
現在は
ロマンティカーハウスとして、ドイツ観念論やロマン主義のかつての現場として博物館となっている。
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______[Das Romantikerhaus in Jena 2006 © DFS All Rights Reserved]______

だが、それらの文化的遺産そのものの価値は何ら減ずるところがない。それは特に戦後の現代思想がドイツ哲学を出発点として、さらに継承・発展させていったことからもわかる。またユダヤ人であるバレンボイムがイスラエルでワーグナーを演奏した事件もその参考となろう。歴史的な経緯や結末を正しく知ることはもちろん重要だ。だが、ワーグナーが反ユダヤ主義的な発言をしていたからと言って、その音楽を否定するのは間違っているし、ショーペンハウアーが老婆を階段から突き落としたからと言って、彼が倫理について発言している内容に影響を及ぼすものではないのである。(もっとも、純粋に音楽学的な議論の中で、ワーグナーの問題点を議論するのは、これはまた別の話)

ところで、ドイツの都市破壊に関して、数学者の藤原正彦が週刊新潮の連載(※)で「ハーグ条約違反だ!負けたからといって、ドイツはおとなしくてちゃいかん!」という趣旨のことを書いていたが、この人はまるで歴史を理解していない。鉄筋コンクリートだらけのフランクフルトの街並みを見て、連合軍の戦争犯罪をとがめるのなら、その前にコヴェントリーにいって、破壊された教会を見るべきである。それでも、英国空軍を咎めることができるだろうか。

(※)藤原正彦の「管見妄語」週間新潮5月7・14日特大号


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歴史と対峙する以上は、いつかはこれらの「ドイツによって破壊された」現場をもこの目で確かめなくてはならない。また、ポーランド古き街並みを完全に再現することに成功したが、これの意味するところは、ドイツとは当然のことながら異なる。侵略者に破壊しつくされた自分達の誇り高き街を、どうやって復興したのか、そしてそれが今我々の目にどのように映るのか、これを確かめるのも今後の課題の一つだ。

__________ワルシャワのマーケットプレイス(市場広場)____________

by fachwerkstrasse | 2010-10-02 10:51 | なぜ木組み街道?

なぜ「木組み街道?」 - (13) - 過去との対峙 -

なお、消え去ったドイツの街並みばかりを憂いている文言になってしまっていたので、補足しておく。確かに、これらの貴重な街並みを消し去ったのは連合国側なのだが、無差別爆撃を最初に開始したのは他ならぬナチスドイツである。(同時期の日本も同様)有名なゲルニカをはじめ、侵攻したポーランドにおいても、徹底的な殺戮破壊を行った。最終的にその矛先は他ならぬドイツに跳ね返ってきたわけである。


________________(爆撃後のゲルニカ)_______________
________(Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jp)________


その根底にある思想は、ゲルマン民族のみが優秀であり、他は取るに足らぬものだから、消し去ってしまわなくてはならない、というような、あまりにもお粗末な集団的狂気である。そして敗戦の色が濃くなってくると、逆にそんな腰ぬけのドイツなど消えてしまえと、ますます狂気じみた考えが政権中枢を駆け巡っていた。

パリが連合軍に奪還されそうになると、ヒトラーはパリの破壊命令を出しているほどである。パリは燃えているか!の狂気じみたセリフ(および同名の映画)は、あまりにも有名だ。もし命令が実行されていたら・・・と思うとぞっとする。(ただし、実際には街全体を破壊できるだけの弾薬はなかったらしい)

この程度のリスク管理能力の人間たちが権力を握り、人類共通の文化遺産と多くの尊い命を自分達の狂気のために弄んだことには、心底腹が立つ。(もっともナチスに投票して政権の座に送り込んだのは、他ならぬドイツ国民だが) ドイツ降伏の一ヵ月半前にヒトラーはドイツ全土の焦土命令(所謂ネロ命令)を下した。「敗戦が決定的である以上、ドイツ民族はもはや生きるに値しない、ただ滅びゆくのみ」などと捨て台詞を吐き、人類史上最悪の独裁者は自殺していった。



(映画『ヒトラー~最期の12日間~』 ヒトラーの「人間」に焦点を当て、孤立してゆく独裁者の末路を描いた作品として、公開当時は大いに物議をかもした)

つまるところ、廃墟と化したドイツの街の惨状は、世界都市ゲルマニアを実現できなかった独裁者の思惑どおりだった、ないしは呪いであったともいえるのである。わずか12年の間にドイツがそれまでに築き上げてきた文化的・精神的遺産を徹底的に悪用し、それを灰燼に帰してナチスは滅びて行った。地獄へと道連れにしたといってもいいだろう(丸山正男は、ヒトラーが財界から献呈されたワグナーの自筆譜をあの世に道連れにした可能性を示唆していた)敗北を予期したヒトラーがここまで考えて、一つのストーリーを構築していたとしたら、恐るべき話だ。


戦後のドイツ語圏の文化は、それまでの古典的文化の解釈であろうと、新たな創作に際しても、この負の歴史といかに向き合うか、というテーマを無視してはいられなくなった。デュレンマットのように、推理小説ですら、ナチスの犯罪がテーマとなっているほどである。そして戦後に所謂「ドイツ的Deutschtum」な要素を引きずっていた芸術家たちは、一気に評価を下げ、忘れ去られてしまう。今でもとりわけ若い世代には、古典的教養や我々日本人がイメージするところの「ドイツ的」なものに対する拒否感は強い。

そういうこともあって、はるばる遠くからドイツを訪れて歴史の跡を訪ね歩く日本人の姿は、ドイツ人にとって驚きなのである。自分もこれまで行く先々で何度尋ねられたことか…

「どうして日本人はあんなに熱心にバッハを聴くの?」
バッハが両親の死後に暮らしていたOhrdrufの博物館の学芸員の方
日本でクラシック音楽が浸透するようになったのには、どういう背景があるの?」
知り合いのドイツ人のご婦人
日本でドイツの古典文化があれほど知られているのは、とても信じられない、いったいどうして?」
ドイツ人学生 
「おたくはドイツ文学を勉強なさっていると!?やれやれ、これだけたくさんの日本人がゲーテのことを知っていて、はるばるここまで来るというのに、私は日本文学のことなど何も知らない、お恥ずかしい限りだ」
フランクフルトのゲーテ博物館の学芸員の方

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_______[Eisenach, Lutherstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]_______

因みにBachhausは博物館ではあっても「生家」ではない、早く誰か訂正してあげればいいのに…
by fachwerkstrasse | 2010-10-01 23:56 | なぜ木組み街道?