まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


by fachwerkstrasse

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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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カテゴリ:音楽雑感( 4 )

冬時間の到来とともに「冬の旅」を想う (続き ③)

そんなシフのピアノは、冒頭からまさに氷のように冷たい。

冷た過ぎて恐怖すら感じてしまう音色で、聴き手を一気に冬の旅へいざなう。

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____[Heidelberg Blick vom Philosophenweg 2010 © DFS All Rights Reserved]____

「おやすみ」と、すでにこの世との決別を表明し、さすらい人は歩みを続ける。冷たい風が吹きすさび、涙も凍りつき、もはや妄想を抱くことすら許されず、リンデの木(菩提樹ではない!!!)の下でしばしの休息をとり、目を閉じる。雪の降る真冬の夜に、である!。梢のざわめきは、まるで「おいで」と呼んでいるようだが、まだ本当の安らぎは得られない。旅人はまだ歩みを止めるわけにはいかないのだ。

再び涙があふれ、悲しみは雪に吸い込まれてゆく。川のほとりでしばし樹皮に刻んだ恋人の名前に思いを馳せ、幸福な思い出が一瞬蘇るも、再び孤独と絶望の現実に引き戻される。鬼火までがちらつくが、山小屋でしばし憩いの場を見つけた。

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幸せな春の夢も、いっときのわずかな幸福への夢想も、無情なカラスの鳴き声で一瞬に容赦なくかき消されれ、目の前の厳しい「冬」の現実に引き戻されてしまう。

シュライヤーとシフの演奏では、そのコントラストが実にすばらしい。

旅人はついに明るい朗らかな世界を呪うようにまでなってしまい、再び孤独に歩みを進める。

街からやってきた郵便馬車のラッパの陽気な音色が聞こえる。

恋人の住む街からやってきた、あの郵便馬車だ!

だが当然自分宛の手紙などあるわけもない。


______________[Heidelberg Kurzer Buckel 2010 © DFS All Rights Reserved]


降り積もる雪で頭は真っ白だが、本当に年老いて白髪になったかのような心持ちだ。頭上には、そんな死に体の自分に食らいついてやろうと、カラスが一羽くるくる飛んでいる。シフの軽快なテンポと透明で軽やかな音色は、もう本当に屍の上をくるくる飛ぶ鳥と、冬の冷たく澄んだ空気そのものだ。枯れ木に一枚残る葉に最後の望みを託すも、それも無残に散ってしまう。村に入っても犬に吠えられる始末。

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_______[Heidelberg Schloßgarten 2010 © DFS All Rights Reserved]______


風の吹きすさぶ朝、そうさ、冬はこうでなくちゃ!と、もはや自暴自棄。暖かい家庭の幻影まで見えてくるようになった。もはや自分が進むべくは、誰も通ったことのない道、一人として戻る人のない道だ。

おまけに最後の安息所(つまり墓場)でも満室だと断られる始末。もはや陽気に歌って踊るしかあるまい。
この世にゃ神も仏もないんだから!!3つ見えていた幻日も、二つが沈んでしまい辺りは暗いが、むしろその方がかえって心は落ち着くというもの。

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そして村のはずれで孤独に手回しオルガンを回す奇妙な老人と出会った。

聴く人もないまま、ひたすら回す、回す、回す… ライアーマンの孤独な調べ… 

まるで演奏が終わっても冬の旅の音楽は永遠に続くかのようだ。



_____________________________[Der Leiermann © Anton Piek]

そう、ここで描かれている孤独と絶望は、どんなに時代が変わろうとも、必ず人々の胸の奥にあり続けるのだ
by fachwerkstrasse | 2010-11-05 19:47 | 音楽雑感

冬時間の到来とともに「冬の旅」を想う (続き ②)

シューベルトは歌曲を本来テノールの音程で作曲している。冬の旅の沈痛な世界はバリトンでないと軽く響いてしまうという意見もあるが、やはり作曲者本人が描いていた世界はテノールの高い音程なのである。
(自分はどうも、F/ディースカウの即物的表現に共感を覚えられない。まるでロボットが歌っているようにしか聴こえないのである。ライブ録音もいくつか聴いたが、とても荒かった。)

さて、そんな冬の旅の筆頭にあげたい録音は、シュライヤーとシフの共演だ。

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何が凄いって、ここでのシフの仕事はもはや「伴奏」の域を完全に超えてしまっている。あたかも「歌付きの」ピアノソナタを聴いているような気分だ。

だが、残念ながらこれを100%の決定版におせない理由は、他ならぬシュライヤーの歌唱。晩年のシュライヤーの声にはどうしても年齢を感じてしまう。

[Peter Schreier, Schiff András (WHLive0006) © Scheila Rock]___________

さらに、これはものすごく贅沢な要求だが、冬の旅といい水車小屋といい、語り手はさすらいの若者のはずなのだが、老人の声で聴くと、まるで「まぁ若気の至りじゃのぅ」と、どこか達観して物語っているように感じてしまうのだ。歌い手の生まれが早すぎたのか、伴走者の生まれるのが遅すぎたのか・・・ それはそれで、円熟の表現として貴重なものだし、この録音でも長年培ってきたシューベルトの解釈をあますところなく披露してはいるのだが、それだけにいくつか残念な個所がある。(高い声は美しく伸びているが、逆に低音が厳しい)
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___[Heidelberg-Ziegelhausen Oberer Rainweg 2009 © DFS All Rights Reserved]___

引退公演を日本で生で聞いた時には、もうそんなのをみじんも感じさせない、少ない音から紡ぎだされる巨大な空間を作り出していたが、録音だとどうしてもそういう細かい点が気になってしまう。実際、若い時の方が声も表現も素晴らしく、生き生きとして実に伸びやかなのだが、そうかといって、逆にシフの伴奏はといえば、これを一度聴いてしまうと、もうどんな伴奏も「浅く雑に」響いてしまう。何たるジレンマ!!

唯一の例外は、最近マティアス・ゲルネと共演しているエッシェンバッハくらいのものだろうか。だがそれも全体的な表現の深みであって、やはりシフほどシューベルトの少ない音符の一つ一つの意味を正確に捉え、それを過不足なく音にしているピアニストはいない。
by fachwerkstrasse | 2010-11-04 23:58 | 音楽雑感

冬時間の到来とともに「冬の旅」を想う (続き ①)

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リアルタイムで旅日記をここにあげているわけではないので、たまには季節の話題でも… 


と思ったら次々といろんなことが思い浮かんで、どうしても音楽の話になってしまう、やれやれ。

とはいうものの、芸術をそれが生み出された土地で、季節を肌で感じながら享受できるのはとても幸せなことだし、むしろ理解する上では必要不可欠なことだと思うのだ。


かつては風土論に対する哲学者の風当たりも強かったが、おそらくそれは思想信条創造を紙の上にとどめておきたい学者の性ではないか。



______________[Heidelberg Schloßgarten 2009 © DFS All Rights Reserved]



しかしキリスト教(の元をたどればユダヤ教)は、ユダヤ人の過酷で壮絶極まりない運命と、砂漠という厳しい自然環境なくしてはそれまでの円環ではなく線的な(後の時代の言い方だと弁証法的な)発展の発想は生まれてこなかったと僕は思うし、ドイツのこの雲に覆われて暗い冬なくしては、観念論哲学もロマン主義もありえなかったことだろう。

雪に覆われたハイデルベルクの街並み。19世紀初頭、フォン・アーニムとブレンターノはここで民謡の収集を行って「少年の魔法の角笛」を編纂した。これがハイデルベルクでのロマン主義の口火を切ることとなる。街の中には、二人が共同作業を行った家も残っている。
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_____[Heidelberg Philosophenweg 2010 © DFS All Rights Reserved]_______

同じように、文学作品もそれが生み出された時代、土地、作者という一人の人間、これらの産物であり、それらを切り離して、あたかもテクストだけが純粋に存在しているかのような解釈学には、まるで人間機械論を地で行っているような感じがして違和感を禁じえない。そもそもなぜ「作者の意図に《縛られる》と」などと、思い上がった発想になるのか、一応文学理論をざっと俯瞰した今になっても、首をかしげる今日この頃だ。(こうはっきりと書くのは、それに代わる新しい理論的根拠に出会ったからなのだが、それについてはまたいずれ詳しく)ちなみに一方で、演奏家の建前としては、あくまでも「楽譜に忠実」。実際はいろいろやりたい放題やってはいても、百年前ならいざ知らず、今の時代にあっては「おれはもう作曲家の意図になんて縛られるのは真っ平御免だ」などと口にしようものなら完全に干されてしまうだろう。

話をシューベルトに戻すと、西洋の音楽史をひも解いても、およそこれに匹敵する作品は見当たらない。俗世の人間ではなく、神を聴衆としたバッハの堅牢無比な対位法の世界も、変奏技術と構築美の限りをつくして19世紀の扉を開けたベートーベンも、純粋に神という「中心」を念頭に置きながら創作ができた中世の宗教音楽も、そして逆に和声や管弦楽法が行きつくところまで行ってしまった19世紀末の音楽も、およそ「冬の旅」の世界にははるか及ばない。

(バッハが洗礼を受けた、アイゼナハの聖ゲオルク教会)
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_____[Eisenach Pfarrkirche St. Georg 2010 © DFS All Rights Reserved]______


というのは、バッハは当時の人に聴いて分かりやすい音楽を書いたのではなく、純粋に音楽として優れたもののみを目指したのであり、ベートーベンは流麗な旋律を生み出す才能はとんとなかったが、構築美と執拗なまでの主題処理の方法論は他を圧倒するし、中世から近代までは、単旋律からポリフォニーへ、そしてポリフォニーが禁止され、ルター派のコラールから再びフーガの極致へと、発展と後退があった。かくて歴史は繰り返される。また、調性を維持し続けたた20世紀の音楽を不当に低く評価してはならない。機能和声の範囲内でさらなる発展を遂げた稀有な作曲家もいたのだ、この辺今後の課題。では、シューベルトが到達した世界とは一体何なのだろう。彼は晩年になって対位法の重要性を悟って勉強しようとしたが、先に命が尽きてしまった。シューベルトと対位法… 聴いてみたかったような、ソラ恐ろしいような…。

別な言い方をすれば、シューベルトのこの連作歌曲集だけが、西洋音楽史の中で唯一、ほとんど例外的に飛びぬけてまったく別の世界へ行ってしまっているのだ。F.ディースカウが能の世界に通じる虚無感を指摘しているように、あえて比較をするならばむしろ「すべてはかりそめに過ぎぬ」あの東洋哲学の世界だ。ショーペンハウアーがインド哲学に触れていたことは知られているが、はたしてシューベルトが東洋哲学をかじっていたのかどうか、ほとんどその可能性はないと思うのだが、いずれにせよ意図してのことなのか、偶発的な芸術上の奇跡のなせる技なのか、シューベルトはこの作品でとんでもないところへ行ってしまった。その意味でも彼は孤独な人だった。音楽史の中で孤独な位置を占めているのである。それはただ単に「歌曲の王」の称号で語りつくせるものではない。
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_______[Heidelberg Alte Brücke 2010 © DFS All Rights Reserved]________
by fachwerkstrasse | 2010-11-03 23:57 | 音楽雑感

冬時間の到来とともに「冬の旅」を想う

欧州では10月最終日曜日をもって冬時間に切り替わる。日本の最北端をしてドイツの南端と重なるほどの緯度なので、日照時間の変化が激しく、夏は時刻を一時間前倒しして、人間の活動時間と日照時間を合わているわけだ。

そしてドイツの冬の空はいつも雲に覆われていて太陽が照らない。「街に蓋をしたような冬の空(山之口洋 オルガニスト)」という表現が、ぴったり合っているので、僕はとても気に入っている。

だが、今月のドイツは比較的太陽がよく顔を出すので、まだ気分もそれほど陰鬱にはならない。
紅葉に覆われた山々が美しく、まさに「秋晴れ」だ。(ドイツ語では「黄金の秋」と言う)
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_______[Heidelberg Landfriedstraße 2010 © DFS All Rights Reserved]______

夏の良い時期にドイツを訪れる日本人は、とりつかれたように表に出て、テラスでビールを飲み、日光浴をするドイツ人の姿をみて訝しがる。しかし最低でも365日ここに住めば、誰でも納得するのだ。ここの冬を一巡すれば、太陽が出るのは今しかない!とばかりに、みな戸外へ繰り出すのである。

僕も以前は、太陽が隠れてしまう冬を呪うというドイツ式メンタリティを見事に身につけていたが、最近はそうでもなくなってきた。なぜなら再び「冬の旅」が聴ける季節になってきたからだ。

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暗く寒く寂寥感すら漂うドイツの冬。


4時や5時で真っ暗になり、クリスマス市が出るようになるまでは、現代文明を享受するこの時代にあってもなお、何もないのだ。

この「空気」に触れていないと、シューベルトの音楽は骨身にしみわたってこない。

逆に夏は封印しておいたセヴラックの音楽を待ってましたとばかりにむさぼり聴く。

陽光と木々の緑がなくては、この「『素敵な香りのする(ドビュッシー談)』あるいは『大地の香りがする(舘野泉談)』音楽」もそれ相応には響いてくれないからだ。


[Heidelberg Neuenheimer Landstraße 2009 © DFS All Rights Reserved]_______

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ところで、個人社会だと言われるヨーロッパだが、実際のところ、人々は日本人よりもべったり寄り添って生きている。

おひとり様なんて価値観は、およそこちらで考えられるものではないし、実際社会生活上にも支障をきたすことすらある。

「孤独」は完全に否定的な概念だ。

嗚呼、しかしそんな孤独が否定的概念にならず、積極的な孤独同士が無邪気に交わることで、日常の中でも幸福を感じさせてくれる上に、創造力をも刺激される、そんなベルリンの居心地の良さが恋しい… 

ま、それはさておき・・・

__________________[Berlin Eberstraße 2007 © DFS All Rights Reserved]

だから内面に目を向け続けた詩人たちの孤独な世界は、実は「普通の」世界とはまるで異なる、いわば文化的にみたもう一つの側面と言った方がいいだろう。ただでさえマイノリティの芸術愛好家の中でも、本気であんな狂気すれすれの世界に共感している人なんて、まずいないのではないかしら。他ならなぬ芸術家たち本人から皮肉られている日和見主義的な芸術理解が実際はほとんどではないか。(もっとも「深淵」に蓋をしてあえてそれを見ないようにする、というのも芸術の主要命題ではあるが)

だが自分は元来「一カ月人と会わなくてもまったく平気だが、一週間ずっと人と一緒にいると発狂しそうになる」性質なのに加え、常日頃から詩人や音楽家の到達した普遍的高みを目指すべく、常に視線は遥か彼方に向けられているので、むしろ孤独を肯定的に捉えているし、そもそもが人間にとって孤独は必要なものであるとすら思っている。もう少し孤独を肯定的に捉えられないものだろうか?そして日常からの現実逃避として芸術があるのではなく、日常に変化をもたらす、ないしは日常を豊かにする別の広がりや精神的な豊かさをもたらすのが芸術なのではないだろうか。もちろん「芸術」と称して、実際はそうでない「芸当」の方がはるかに多いのだが…。
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___[Heidelberg Schloß-Wolfsbrunnenweg 2010 © DFS All Rights Reserved]___

つまり本来の芸術の喜びと言うのは、一人ひとりの中に独自に醸成されるべきものであって、普段は内面にひっそりとたたずむデモニーッシュなものとの対峙を促す半ば命がけの営みなのだ。内面に潜む「死」「タナトス」「抑圧された衝動」。芸術は日常の皮相なな現実とは別の「内面における現実」を目の前に否応なしに突きつけてくる。シューベルトの音楽からは「死」の臭いがぷんぷんする。そんなものが他人とにこやかに共有しうるだろうか。つまりは元来それも孤独なものなのである。実際人間が死ぬ時は一人だ。無理心中や集団自殺はできても、死ぬという行為・現象を誰かと分かち合うことはできない。それに対して、不特定多数の聴衆に向けられた、個人を一つの大衆に仕立てあげて熱狂させる「陶酔」こそ、孤独を忌み嫌い、常にだれかと一緒にいたい、価値観も好みも常に誰かと共有していたい大衆としての聴き手の心理を見事についている。だが、どんなに「死」という現実から目をそらそうと、それはまやかしでしかないのだ。「現実」を直視する芸術家ないしそれを享受する者は、まさに「孤独」に徹し、犀の角のようにただ一人歩むのである。
by fachwerkstrasse | 2010-11-01 23:53 | 音楽雑感