まだまだ知られざるドイツの歴史探訪の旅。偉大な芸術がうみだされた現場や歴史の舞台となった場所を訪ね歩くことで、紙の上に留まらない活きた文化を醸成してゆく地道な旅の記録です


by fachwerkstrasse

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© 2010-2011 M.UNO

2005年よりドイツ在住
NRW→Thüringen→Hessen
と放浪の旅を経て、現在は
ドイツ・ハイデルベルク大学 
会議通訳修士課程 在籍中

日本独文学会幽霊会員
日本ヘルマン・ヘッセ友の会/
研究会幽霊会員


[翻訳] 

ヘルマン・ヘッセ:インドから
(ヘルマン・ヘッセ全集第7巻)
臨川書店(京都)

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なぜ「木組み街道?」 (9) - 古典への視座 -

現代的意義といっても、それは古典を現代風に解釈することではない。これについてはいずれじっくり論じたいと思うが、自分は例えば昨今のオペラの演出にみられる「古典の現代風解釈」に疑義を呈している。古典に接して理解できないのは、勉強不足の現代の読み手・聴き手の責任であり、それを理由にして作品に手を加えるなど言語道断である。作品を現代に近づけるのではなく、我々の方から古典作品ないし古典が生み出された時代に近づいていかなくてはならない。

そもそも古典を紐解く意義は、今生きている時代、習俗、常識、知的営みとは異なる世界に触れて、現代とは別次元の「精神的広がり」を自分の中に作り出すことではないのか。言葉の壁、時代背景の違いなど、様々なハードルがあるのは確かだが、それを乗り越えて得られるものは、現代のとっつきやすい表面的な文化よりもはるかに大きい。池澤夏樹も古典と取っ組み合う大切さを強調している。

世界文学の名作 脚光 18年ぶりに全集発行など」(2007年 朝日新聞)

「今は口当たりのいい、おなかにもたれない小説を好む読者の層が膨らんでいる。だが、歯ごたえのあるものを頑張って理解した時の達成感は大きな喜びになる。そうした格闘の体験は恋愛より大切なものだ。」

これは文学だけでなく、音楽や美術などすべてに当てはまることだろう。だが実際のところは、現代を無条件に肯定し、古典古代から現代に至る知的退廃をよしとし、挙句の果てには崇高なる古典そのものにまで手をかけようとしているのが現状。この傾向は日本よりむしろドイツの方が強いのではないかと危惧している。9割の人間が古典には目もくれず、残りの1割はまともに取り組んでいるだけマシだともいえるが、それは古典が本来持つ「重み」をきれいに取り払った模造品であることがほとんど。(制作サイドのプロダクションも、大衆の受け止め方も)哀れなるかな、せっかく人類が誇る精神的遺産がありながら、その価値を貶めることが「人類の進歩」だとされている。
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[Semperoper in Dresden 2008 © DFS All Rights Reserved]

今のドイツで憂うべきは、学生や職業訓練中の若者などは(失業者も!)演奏会や歌劇場などで映画よりも安い値段で特等席につけるのに、会場内の年齢層は見渡す限りどうみても高い。日本だともう少し年齢層にバラつきがあるように思うが、この状況はそのまま社会の精神的貧困さを物語っている。(青少年向けの企画などはやっているが、学校単位で無理やり連れてこられた生徒たちでぎっしり、隣の連れと喋り通しでロクに聞いていない。何よりも、演目や演奏形態はそのままなのに、司会者が出てきて上っ面だけの曲目紹介なんかしても、意味がないと思う。)喉から手が出るほど芸術に飢えていながら、財布と相談した末に涙を飲んでいる日本の若者が知ったら、怒り心頭ですよ、これは!

唯一ベルリンくらいだろうか、芸術が身近な存在として親しまれ社会の中に自然と溶け込んでいるのは…。それも伝統に重きを置いたものから最先端の意欲的なプロジェクトまで、実に多様で刺激的。企画の多さではおそらく東京が、幅の広さやバラエティの豊かさ、そして先進性ではベルリンが一歩リード、というところだろうか。
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[Die Berliner Philharmonie, großer Saal 2010 © DFS All Rights Reserved]

(上の写真は今年のラトル指揮ベルリン・フィルによるマタイ受難曲「上演」休憩時。
舞台中央で練習しているのは、客演ガンバ奏者のヒレ・パーレさん)

だからといって、そんな自分の「好み」を広めようとか他人におしつけようとか、なにかの潮流や運動を引き起こそうなんて、そんな気は毛頭ない(し、そんな行動力もカリスマ性もない)。そうではなくて、自分だけのそうした世界や価値基準を、ひとりひとりが自らの中に築き上げることが大事なのだ。文章化するのはそれを昇華させるためである。書くという行為を通じて自らの意識が明確なものとなり、読む行為もより生産的なものとなってゆく。(読む作業は書く作業に支えられている!)

そんな「古いものを探求する」知的営みの象徴として目に留まったのが、この木組み街道だった。そして、まずは駄文を並べ立てて自分のひねくれた視点を洗いざらいさらけ出すのが狙いというわけなのだ。しかし、それは許光俊氏が指摘するように、何かを論じるんだったら初めに自分の主観や寄って立つ位置を明確にしておくべきだからであり、むしろそうした主観交じりの情報の錯綜で、逆に真実を浮かび上がらせるというのは、まさに今のネット社会の特徴ではないか。かつての「客観的作業」の積み重ねによる情報ツールの権威は、その栄光を失いつつある…

(シンボルとしての木組みの家)
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[Bad Camberg, Obertorstraße 2009 © DFS All Rights Reserved]

だがそうは言うものの、ここまではっきりと「自分をさらけ出す」ことには躊躇していた。しかし迷いを拭い去り後押しをしてくれたのは、賛否両論分かれているこの本であった。

「カラヤンがクラシックを殺した」 (光文社新書) 宮下誠 (著)

バーゼル大学で博士号を習得されている美術史家だが、学術論文のお作法や方法論などなんのその、自らが精通している理論や概念を好き勝手に援用しながら、自らの思いのたけを存分にぶつけている。(そもそも作品ならいざ知らず演奏芸術は理論的な批評の対象となりえない。せいぜいのところ、どの版を採用したとか、楽器編成をどうしたとか、現代楽器か古楽器か、現代楽器をノンビブラートでやるか、という次元が精一杯で、ある演奏が良かったか悪かったかなんて、いくら言葉を尽くしたところで所詮は「読書感想文」の域を出ないのである)

だがむしろそれを逆手にとって、この本は、20世紀の演奏芸術が辿ってきた諸問題とジレンマ、そして芸術と社会・文明の関連を克明に浮き彫りにしている。学術研究としては絶対に無理な言説だ。(思えば、自分の出発点も名人芸の魔力に煽られてブラボーを叫ぶ聴衆と独裁政治による集団的熱狂を同一視したテーゼであった、そこからなんと遠回りをしてきたことか…)たとえ非難されて、罵倒され、敵を作ってでも、はっきりと自分の視点を打ち出した上で文化について論じなくてはならない、そのことを認識させるきっかけになった本だった。しかし本の内容より衝撃だったのは、この本が結果的に著者の最後の著書になってしまったということ…。
by fachwerkstrasse | 2010-09-25 22:47 | なぜ木組み街道?